川除普請  

 

(かわよけふしん)

【近世】

川除普請とは治水工事のことであり、堤防管理とあわせ堤川除普請とも称される。前近代の土木普請は土と木と石を素材に工営されるが、十分な耐久性を持たないため、維持・修復のため不断の注力を要した。小規模な施工は地元村々負担の自普請が行われるが、大規模かつ公共性の高い場合、個別領主負担の手限普請や幕府が介在する国役普請、大名を動員する手伝普請が実施された。近世前期の治水は、堤から河身に突き出す枠などの水制が少なく、洪水時は溢れさせる消極的な治水であった。これが元禄・享保期以降になると、枠・籠・猿尾などの水制使用が一般化するとともに、長大な連続堤を築いて流水を川内にとどめ、新耕地の獲得を促す方向に向かっていく。矢作川流域における明和4(1767)年洪水の復旧工事記録によると、渡刈村(上郷地区)では堤高1丈7尺(約5.15m)、敷11間(底辺約20m)、馬踏2間半(上辺約4.5m)という当時の本堤規模を知ることができる。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻463ページ

→ 国役普請