(がんしょうじほんどう・さんもん・しょうろう)
【建築】
桝塚西町(上郷地区)。寺はもと五井という低湿の地にあったが、宝暦4(1754)年2月、水害を被ったことから、衆徒意を決して、集団移住を計り、同7年3月から現地を開拓して、新郷を造ったという。当寺は住民に先んじて本堂、庫裏の一部を移築し、庭に黒松を植えたといわれている。本堂(写真)は、入母屋造、桟瓦葺、向拝1間(実長3間)付で、東向きに建てられる。軒は一軒疎垂木。規模は、桁行実長7間、梁間実長7間半で、江戸時代中頃の中型の真宗本堂の特徴を示す。来迎柱と脇仏壇前柱の4本を円柱とするほかは面取角柱である。間取りは、堂前半の間口7間、奥行1間を広縁、その奥2間を外陣、次奥の1間を矢来内とし、広縁・外陣の正面と南側の二方に半間強の擬宝珠高欄付の縁を付け、正面に向拝と木階4級を設ける。堂後半の中央の間口3間を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口2間の飛檐の間、内陣背面には奥行1間の後堂を通している。この本堂を復原すると、もとは来迎柱・須弥壇を用いる後門形式でなく、脇仏壇と余間仏壇の前端を内陣側面の中柱通りに揃えた通し仏壇の形式であったと推察できる。また、堂前半の広縁1間が堂内に取り込まれている点や外陣正面の脇間に蔀戸が用いられている点などに18世紀中頃の古式な真宗本堂の特徴がみられる。山門は、絵様から本堂が移転した宝暦7年頃に建立されたと推察できる。この門は、中型の薬医門で桟瓦葺。両脇に桟瓦葺の袖塀が付く。鐘楼は、絵様から本堂が移転した18世紀中頃の建立と見られる。単層、入母屋造、桟瓦葺、亀甲切石積の6段の高い基壇上に建てられている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻79ページ