(かんしょく)
【民俗】〈食生活〉
かつては1日に4、5回の食事をとっていたが、朝・昼・晩以外の間食にあたる食事の名称はさまざまである。戦前は1日5食だったという葛沢(足助地区)の話者によれば、午前10時頃に食べるのをチャノコ、午後3時半~4時頃に食べるのをバンヂャノコといっていた。御蔵(足助地区)では10時頃に食べるのをヨツヂャと言っていた。田津原(旭地区)では午後3時頃に食べるのをオチャヅケ、またはヨイヂャともいい、上切(旭地区)ではオチャドキ、旭八幡(旭地区)はヨツヂャとかオチャドキと称した。間食の内容は、ふかしたジャガイモやサツマイモなどの芋類、またはご飯に漬け物といった軽い食事という地区もあった。サツマイモを使ってよく作られていたのが、イモキリと呼ばれる干し芋で、保存がきくため重宝された。小麦粉を溶いて、さいの目に切ったサツマイモを混ぜて蒸した鬼まんじゅうも、間食として家で作るものだった。山間部ではサトイモのボタモチもよく作られていた。また、正月の餅つきの際にボロ(アラレ)やオヘギ(煎餅、写真上)を作っておき、間食として利用した。もっとも手軽な間食は、食用の粉を熱湯でかいて食べるもので、大麦を炒って粉にしたコウセンのほか、玄米を炒って挽いた米コウセンもあった。小麦粉を使ったおやつとしては、小麦饅頭も作られていた。小豆餡を包んで蒸したもので、農繁期の間食用や、暇な時などに作ったという。市域平野部ではダラヤキ(写真下)と呼ばれる、お好み焼きのようなものもよく作られていた。小麦粉を水で溶いて塩味をつけ、刻んだネギや玉子などを入れて混ぜ、焙烙で焼いて食べた。甘いダラヤキもあり、砂糖入りの生地を焼いて小豆餡を巻いた、今のあん巻きのようなものであったという。戦後になると、小麦を農協に出荷するともらえるうどん券を、あんパンやクリームパンなどの菓子パンと換え、農作業の合間のおやつにしたという話も聞かれた。〈食生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻296・322ページ、16巻319ページ