(がんせいじほんどう)
【建築】
前林町(高岡地区)。寺記によると、文化元年(1804)甲子の年から再建を企て、文化3(1806)年2月より立柱始め、8月27日に上棟、翌4年7月17日に遷仏供養を行ったという。本堂は、入母屋造、桟瓦葺、向拝1間(実長3間)付で、東向きに建てられる。軒は二軒疎垂木。規模は、桁行実長10間半、梁間実長9間で、江戸時代後期の大型の真宗本堂の特徴を示す。間取りは、前半の間口7間、奥行3間を外陣、次奥の1間(中央間は1間半)を矢来内とし、外陣の正側三方には、1間幅の広縁と半間幅の擬宝珠高欄付の落縁を付け、正面に向拝と木階4級を設ける。堂後半の中央の間口3間を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間で、その内の背面半間に脇仏壇や余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間半の飛檐の間を配し、堂背面には奥行1間の後堂を通している。内陣は来迎柱・須弥壇を用いる後門形式をとる。柱は来迎柱2本と内陣および余間廻りの14本を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、内陣および余間正面の柱間、内陣および余間内部の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に渡され、外陣内梁行と矢来内正面の虹梁上には松や鶴の丸彫彫刻を載せる。外陣外廻りは柱上に出組斗栱を載せ、彫刻蟇股、雲形の板支輪を入れ、柱間に双折桟唐戸と障子を入れる。内陣および余間正面は柱・束上に出組斗栱を載せ、彫刻蟇股、雲形の板支輪を入れ、内法上に龍や獅子の高肉彫欄間を嵌め柱間には内陣前に巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣・余間内部および飛檐の間内部にも出組斗栱と彫刻蟇股と雲形の板支輪を配す。天井は広縁を鏡天井、外陣を格天井、矢来内と余間を小組格天井、内陣を折上小組格天井、飛檐の間を鏡天井(もと格天井)とする。この大型の本堂は、仏堂化が進み、総欅造りで、塗装はほとんどないが、欄間・蟇股・支輪などの彫刻が優美である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻97ページ