観音寺本堂・山門

 

(かんのんじほんどう・さんもん)

【建築】

千洗町(小原地区)。道慈山観音寺と号し、真言宗大覚寺派に属する。『由緒記』には、弘仁11(820)年の開創と伝える。また、承応元(1652)年本堂再建、貞享4(1687)年梵鐘鋳造・鐘楼堂建築、元禄2(1689)年客殿再建、寛政7(1795)年仁王門建立、文化6(1809)年客殿再建、同7年庫裏再建とあり、江戸時代中期から後期にかけて諸堂の整備が行われている。明治4(1871)年に大火によって庫裏・客殿・宝庫を焼失したが、これらは山上の伽藍とは別所にあったので、本堂・山門等は焼失を免れている。本堂(写真)は、桁行3間(実長3間半)、梁間3間(実長3間半)、寄棟造、桟瓦葺(もとは杮葺)、軒は二軒繁垂木で、正面に1間向拝を付し、亀腹上に西面して建つ。現在は堂の背面軒下に奥行半間の庇を増築している。向拝柱は石製礎盤上に粽付の面取角柱を立て、柱間に頭貫虹梁を渡し、虹梁端に木鼻を出す。柱上に連三斗を載せ、中備に彫刻蟇股を入れる。斗栱背面には手挟を置く。主屋柱は仏壇正面の2本を円柱(後補材)にするほかはすべて粽付の面取角柱である。間取りは前方の間口3間、奥行1間を外陣、その奥2間を内陣とし、内陣の後方に増築された奥行半間の庇部分を現在は仏壇としている。堂の正側三方には濡縁を廻らし、正面に木階3級を付す。主屋の正側面の各柱間では縁長押・敷居・鴨居・内法長押・頭貫・台輪を廻らし、頭貫端に木鼻を出す。柱上には拳鼻付の出組斗栱を置き、中備には撥束を配すが、正面中央間のみ蟇股とする。建具は外陣の正面と側面柱間には半蔀を入れ、正面3間は内開きに吊るが、側面は嵌め殺しとしている。内陣・外陣境の柱間3間は現在開放されているが、当初は蔀戸で間仕切られていた。内陣の両側面の前端柱間には板戸を引違いに入れる。内陣内部では、当初は背面の庇がなく、主屋背面中央間の前面に和様仏壇が造られていた。観音寺本堂は、市内でも数少ない密教寺院の本堂で、当初は内陣と吹放しの外陣で構成される三間堂であった。柱は角柱であるが本格的な仏堂で、建築的な質も高く、江戸時代前期の遺構として貴重である。山門は、3間1戸の八脚門で、西を正面にして建つ仁王門である。入母屋造、桟瓦葺、二軒疎垂木であるが、もとは杮葺であったと考えられる。妻飾は横板壁を張る。柱は粽付の円柱で石製礎盤上に立ち、四周の柱間には頭貫・台輪を廻らし、柱上には拳鼻・実肘木付の出組斗栱を置き、正背面中央間の中備に蟇股、その他の柱間に撥束を配す。軒支輪には波の彫刻を施す。山門も市内では近世後期の比較的大型の八脚門で、仁王門としても貴重である。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻180ページ