(かんりん)
【近代】
幕藩制において、幕府や藩は「御林」などと称する広大な山林を領有していた。明治政府は、徳川の政権奉還と版籍奉還完了後、これらの領主林を召し上げ、特に優良な植伐対象地は「官林」、それ以外は「官有山林原野」として政府の管理下に置いた。この政府所管の官有山林原野は基本的に払下げ対象地とされたが、このほかにもその後成立経緯の異なる官有山林原野が形成された。それらは大きく分けて、幕藩制時代に①社寺有林であったもの、②数村入会山であったもの、③村持山であったものの3通りがあった。①旧社寺有林は、明治4(1871)年1月5日の太政官布達第四号によって社寺領上知の方針が定められ、以後幾度かの指令を経て明治7年から8年に具体的な方針が定められた。それによると、祭典・法要に必要な境内地以外の社寺上地林が召し上げられ、「官有山林」と称された。②数村入会山と③村持山については、明治5年9月4日のいわゆる地券渡方規則追加によりいったん「公有地」として一村~数村による管理下に置かれた後、同7年11月7日地所名称区別改正等により、順次官民有区分がなされていった。この時官有とされた山林は「官有山林」「官有原野」と呼ばれるようになる。「官有山林」と「官有原野」は立木度の違いにより区別された。官林は幕府の消滅と版籍奉還により比較的スムーズに政府に管理権が移行したが、中には幕藩制下において労役の対価として地元住民に秣場等の利用が認められていた地域もあったため、官林への移行により旧来の利用慣行が断ち切られることに苦情を訴える地元住民も少なくなかった。数村入会や村持等から成る官有山林原野においては事情はさらに深刻であった。いったん「公有地」とされ地券が交付されたことで所有権が認められたものと解釈する者も多く、官民有区分で官有とされると強い不満を抱き、近代を通して長らく民有下戻しや払下げの訴えを続けていくこととなる。
『新修豊田市史』関係箇所:12号8ページ
→ 御料林