(ききん)
【近世】
近世後期は、地球規模での寒冷化という環境変化を背景に、凶荒の時代ともいうべきさまざまな災害が多発した時代であった。風水害、冷害、旱魃、害虫や鳥獣の大量発生などによる凶作は、幕藩制市場構造の矛盾とも結びつき、大規模な飢饉を惹起する。明和9(1772)年から天明6(1786)年にかけての冷害と虫害によって引き起こされたのが天明の飢饉である。三河でも、多くの飢人(窮民、捨て子、痘瘡罹患者)が出ており、樫の実や蕨の根を食糧として凌ぐ者や、耕地を捨て逃亡する百姓があり、助郷免除や年貢減免、御救いが求められている。続く天保の飢饉では、天候不順による冷害や暴風雨などが続いて凶作となり、村々は、年貢減免や安石代だけでなく、夫食・種籾代等の名目で金穀の拝借を強く求めている。稲橋村では、打ち続く凶作や疫病での欠落・病死により、10年間で人口が半分近くまで激減している。なお、飢饉の文化的窮状打開策として、天保8(1837)年には、国学者中山美石が『飢饉の時の食物の大略』を刊行し、さらに万延元(1860)年、羽田野敬雄が増補、無料配布した冊子が伝わっている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻470ページ