(きしだぎんこう)
【近代】
天保4(1833)年4月28日、美作国(岡山県)にあった挙母藩の飛び地に生まれる。14歳から津山で学問修行、19歳の嘉永5(1852)年に江戸へ出て漢学などを究め、のちには梁川星巌など尊王攘夷派の志士たちとも交流を深めた。挙母藩には安政3(1856)年に召されたが、安政の大獄に絡んで藩籍を離れたとみられる。文久元(1861)年にあらためて儒官に招かれ挙母城に登城したが、10月に江戸詰になると12月には脱藩。元治元(1864)年に横浜の外国人居留地で医者をしながら和英辞書の編纂に尽力していたヘボン博士と出会い、辞書編纂や医業の助手を勤めた。慶応2(1866)年には辞書印刷のため上海に渡り、吟香が命名した『和英語林集成』は帰国後に大変な人気を博した。上海滞在中に吟香が話し言葉で綴った呉淞日記は、言文一致の萌芽として評価が高い。元治元年にはジョセフ・ヒコとともに日本初の民間新聞『新聞誌』、慶応4年には『横浜新報もしほ草』という新聞を刊行。明治6(1873)年には『東京日日新聞』の主筆に迎えられ、翌年には日本初の従軍記者として台湾出兵に同行するなど、新聞という新たなメディアの黎明期を支えた。明治8年に編集長を辞した後は銀座の楽善堂で目薬「精錡水」などを販売。販路を清国に広げ、両国の文化交流にも尽力した。その他にも石油掘削、製氷、定期船航路、盲学校の設立など、数多くの文明開化に与した時代の先覚者であった。明治38年6月7日、72歳で没した。吟香の四男劉生は近代美術史上屈指の洋画家に、五男辰彌は宝塚少女歌劇団の演出家となった。写真は岸田正彦氏提供。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻403ページ