記念碑

 

(きねんひ)

【近代】

日本では人々のまわりに多様な信仰に基づいて建立され、多彩な形態で形造られた石造物が存在する。こうした石造物文化の様相は主として民俗学や宗教学の調査を通じて明らかにされてきた。市域にもこうした石造物が路傍や神社・寺院などに広範に存在している。観音信仰、地蔵信仰、弘法信仰、阿弥陀信仰、庚申信仰などの信仰から生み出されてきた石造物、村落の境界などの道祖神、住民の巡礼に関する石造物など多彩である。こうした石造物は人々の信仰や願いを込めて、近世になって広範に建立され、それは近代に入っても続いた。しかし、19世紀に入ると、新しい石造物が地域社会のなかに出現するようになった。それは記念碑と呼ばれる石造物であるが、なかには銅製の記念碑も建立された。記念碑には何らかの歴史的な出来事や功労ある人物の事績などが刻まれ、同時代に生きる人々や後世の人々にそれを伝えるために建立され始めた。「記念」という言葉は戦前までは「紀念」と一般的には表記され、「形見」という意味がそれにはあった。過去や現在に起きた事柄を「形見」、記憶として残していくという意味である。記念碑は大きく分けて、①城跡・古戦場跡・旧居跡などに建立された史蹟記念碑、②歴史的に功労を挙げ、または道徳的に優れた行為をなした人物を表彰する人物顕彰碑、③戦死者を慰霊し、あるいは従軍の事績を刻んだ戦争記念碑、④天皇・皇室が関係する由緒地に建立された聖蹟碑、⑤風光明媚な景観をもつ場所に建立された名勝記念碑、⑥公共的土木工事の竣功を記録する土木記念碑がある。市域でも明治維新後、数多くの各種記念碑が建立されるようになった。こうした近代に建立された記念碑については、『新修豊田市史12 資料編 近代Ⅲ』の第10章「近代の石造物・記念碑」で取り上げ、300基余りをリストに掲載した。①の史蹟記念碑では、明治25(1892)年に足助町の真弓山城跡に建立された「真弓山城墟碑」、明治42年8月に挙母城(七州城)跡に建立された「挙母城阯之碑」、大正4(1915)年11月に建立された「鴛鴨城址」碑、大正5年12月建立の「寺部城址碑」(写真)などがある。②の人物顕彰碑は、郡長を長年務めた田中正幅、挙母の教育の発展に尽くした牧野利幹・鵜沼教、枝下用水の開鑿事業の功労者である西沢真蔵などの記念碑がある。③の戦争記念碑は、市域では西南戦争後から現在に至るまで建立されている。特に日清戦争後に戦争記念碑の建立は定着し、多くの場合神社・寺院の境内に建立された。そして日露戦争後や1930年代に入って、多くの記念碑が義捐金で建立され、記念碑前で招魂祭などの行事が行われるようになった。④の聖蹟碑では、大正3年4月に建立された「御乗替橋記念碑」(嘉仁皇太子の碧海郡視察の記念碑)、昭和3(1928)年に市域の各地に建立された駐蹕碑や即位大礼記念碑などがある。⑤の名勝記念碑では、昭和2年7月に建立された「平戸橋勘八峡碑」がある。⑥の土木記念碑では枝下用水など用水関連の記念碑がある。こうした各種の記念碑の碑文、建立の経過、義捐金の募集、記念碑前での行事などについても、多くの関連資料が残されており、記念碑建立事業が地域住民によって熱心に取り組まれた様子がわかる。


『新修豊田市史』関係箇所:10巻707ページ、12巻641・665・853ページ