(きゅうおかざきかいぐんこうくうたいかくのうこ・へいしゃ・そうこ)
【建築】
桝塚西町(上郷地区)。太平洋戦争中に建築。碧海郡内に二つの海軍の軍用飛行場があった。その一つが岡崎航空基地である。当時の碧海郡矢作町西北部から同郡上郷村桝塚地区にかけて設置されていた。海軍は、この地に航空隊基地の配備計画をたて、飛行場を挟んで南地区(現安城市尾崎町周辺)と北地区(現上郷町南部)に士官宿舎・兵舎・格納庫等の隊舎を建て、飛行場の中央部に滑走路一本を造った。昭和19(1944)年2月、南地区に岡崎海軍航空隊、北地区に第二岡崎海軍航空隊を開隊し、翌年に基地北東部(現岡崎市北野町から豊田市桝塚西町一帯)に第三岡崎海軍航空隊を開隊した。当初は整備・操縦教育練習航空隊であったが、昭和20年5月作戦部隊となり、終戦を迎えた。戦後は米軍の管理下におかれ、昭和21年から施設と土地の払い下げが行われた。この地で創業した「野田味噌商店」は岡崎海軍航空隊の格納庫・兵舎・倉庫を購入し、味噌蔵として再利用した。旧第三岡崎航空隊格納庫(写真)は、昭和20年2月11日に独立開隊した第三岡崎海軍航空隊の格納庫であった。旧格納庫は木造平屋建、切妻造、妻を東西に向けて建つ。規模は桁行28.8m、梁間15.0m、キングポストトラスによる架構で柱の無い大空間を造った。当時も妻面を正面とし、トラス下に戦闘機を出し入れできる大きな開口を設け、吊り戸によって戸締まりしていたと考えられる。桁行の側柱は3.6m間隔、現在柱間は土壁として外部は焼板を下見板状に張っている。内部は張り替えられた横板仕上げ、屋根を支えるトラスのスパンは15m、土間から陸梁下端までは約4.2m、棟木の上端までは約7.7mである。屋根は母屋に野地板を載せ、その上に波形の鉄板を葺いている。当時の海軍仕様によるものという。床は当初、天竜川の川石が敷き詰められていたという。基礎はコンクリート製で、当時のものが残る。旧第二岡崎航空隊兵舎は、第二岡崎海軍航空隊の旧兵舎である。この建物は昭和22年、村立上郷中学校として再利用されていた。 現在、使用されている建物は、教室棟として再利用されていた旧兵舎の一部を解体時に買い取り、昭和30~32年頃に現在地に移築し味噌蔵として利用していたものである。旧兵舎は木造2階建、切妻造、桟瓦葺、一軒疎垂木の建物で、棟を南北に向けて建ち。規模は桁行20間(実長18.2m)、梁間9間(実長8.19m)、外壁は現在黒塗り(コールタール塗りか)の下見板張りとしている。現在、床組も天井も無く、床は全面土間で、上部は梁行方向に二階床の大梁と桁行の小梁、根太も露出している。2階は、L字型の廊下の北側に8畳の和室が東西に2室、南側は58畳の広間となる。 旧第三岡崎航空隊倉庫は、第三岡崎海軍航空隊の旧倉庫である。旧倉庫は木造2階建、切妻造、桟瓦葺、妻を南北に向けて建つ。規模は桁行16間(実長14.4m)、梁間6間(実長7.06m)、室内の中央に上層まで達する太い円柱を立て、床から約2.8mの高さでこの柱から桁行方向に大梁を渡し、この大梁上に両側面の側柱から小梁を架け2階の床組としている。下層の床は現在コンクリート土間、室内の壁および天井は新たに張られ、外壁は一部を除き黒の下見板張りとしている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻534ページ