救恤 

 

(きゅうじゅつ)

【近世】

近世領主権力は、年貢・諸役を負担する百姓の成り立ちを保障する社会的責務があるとされ、そのような御救や仁政の論理を背景に、百姓たちは領主に対しさまざまな生命維持策を要求した。しかし、天明・天保飢饉時においても、領主側は年貢率引き下げには容易に応じておらず、村々では、年貢軽減や安石代(公定相場よりも安い値段で金納する措置)だけでなく、夫食・種籾代等の名目で金穀の拝借を強く求めている。災害時の救済をめぐっては、領主に対するこうした仁政要求とあわせ、地域有力層にも大きな期待が寄せられ、彼らはそれに応じなければならなかった。三河加茂一揆直後の天保8(1837)年3月、小出家は足助四町等の難渋者に施米を行っている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻473ページ