(きゅうすずきけじゅうたく)
【建築】
足助町(足助地区)。屋号を「紙屋」と称す。多様な物品を取扱い、金融業も営み、大地主でもあった。江戸後期に財を成し、文化3(1806)年には「家中並」の格式を与えられ、旗本本多家の年貢仕送り人となり、本多家の家臣として位置付けられている。敷地は、足助の町並みの中央に位置し、旧伊那街道(中馬街道)に面し足助川右岸までを占めている。敷地面積約4000m2(1230坪)に主屋をはじめ、土蔵・座敷・茶室・釜屋から大工小屋に至る建物群と屋敷構えを残す。主屋は、安永4(1775)年の大火の翌年に建造され、足助では最も古い町屋の一つである。現在の敷地は、安永以来の主屋が建つ東側の敷地と、文化7年の取得により拡張された西側の敷地に大別され、さらに南側の畑地は文政6(1823)年と同11年に取得した土地で、現在駐車場となっている東側の土地は天保8(1837)年、西側の土地は文政11年に取得されており、幕末期には広大な屋敷地を有していた。主屋は街道に面して建ち、その南西隅には仏間座敷、その南には「坪の内」を挟んで上蔵が配される。主屋の南東隅からは東側の隣地境界線に沿って井戸屋形および釜屋・米置場・新蔵が建ち並び、これらの西側にサシカケ(土庇)が付く。新蔵の東には飾物蔵、南には米蔵、その東には大蔵が建つ。米蔵の西には裏門となる門屋が隣接し、その西に味噌蔵が建つ。これらの建物群に囲まれた中庭は「中通り」と呼ばれ、門屋の外には大工小屋が設けられる。文化7年に編入した敷地には、主屋西面に張り出す「コウシの間」とその南に水屋が配され、水屋の南には茶室が建つ。仏間座敷の南西には新座敷がある。西側の隣地境界線に沿って本座敷と付属の湯殿と便所が設けられる。新座敷と本座敷の南は庭園とされ、塀で区画される。塀の南側には旦過寮が配され、さらにその南東には隠居部屋である離れが建つ。主屋は旧伊那街道の南側、北を正面に建つ。切妻造、桟瓦葺、平入、北側前面の梁間1間半を錣葺の下屋庇、背面は大棟から葺き下ろしとする。建立年代は屋敷絵図の主屋部分に「安永五丙申年本宅普請」の書き込みがあり、安永5年の建立と考えられる。間取りは、当初東側にニワ(通り土間)の2列6室型で、現在は北西隅に、西側へ張り出したコウシの間(ミセ座敷)を付加している。北側の桁行全長は15.2m、南側の桁行全長は13.0m、東面の梁間全長は11.0mである。6室のうち、街道に面する北側のチョウバおよびオクミセの2室は当初の床を撤去して桁行5間半、梁間2間の土間とされ、その西に桁行2間半に床ノ間と押入が付く8畳間のコウシの間が続き、東側のニワは桁行2間とするが、東妻面の柱筋は隣地境界に沿って設けられ背面で撥状に広がっている。ニワに面して東側南面には桁行2間、梁間2間のダイドコロ(8畳間)、その北に梁間2間のミセ(8畳間)が配される。これら2室の西側は桁行2間半の室がそれぞれ続き、南側は10畳の座敷、北側は押入付のヘヤ(9畳座敷)となる。街道に面したニワの入口には潜戸付の大戸を入れ、入口の西に続く柱間3間には外側に格子戸をケンドンで建て込み、内側には半蔀戸を吊っている。仏間座敷は主屋の南西に建ち、桁行4間半、梁間2間半、切妻造、桟瓦葺、棟を南北に通して建つ。間取りは南北に8畳の座敷を2室並べ、北の8畳は仏壇を備えたブツマ、南の8畳は床の間と床脇を設けた書院構えのザシキとする。仏間座敷の建立に関して不明であるが、安永5年再建の主屋に先行する可能性もあり、大火による焼失を免れた遺構であるとも考えられる。新座敷は文化7年に取得した西隣地の屋敷地内に位置し、仏間座敷の南西隅に縁を接して建つ。棟札によって明治29(1896)年に建立したことが知られる。桁行3間半、梁間2間、木造平屋建、切妻造、桟瓦葺、軒は一軒疎垂木、棟を南北に通して建つ。身舎の南北両面に半間の下屋庇を付す。間取りは、南に床の間・床脇付の8畳(上の間)、北に押入付の6畳(次の間)が続く。8畳の南、6畳の東と北に縁が配される。柱は面皮付、長押も半割磨き丸太等、数寄屋風書院の意匠、床柱は檜の糸面取角柱、床框は黒漆塗り、床は薄縁、天井は一枚板の鏡天井、床の間には下地窓(墨跡窓)、内に掛障子、外に簀子を掛ける。床脇境には狆潜りを設ける。本座敷は北側の街道に面して塀と潜門を設けた「坪の内」を経て、直接出入りできる。小屋束に「文化十四歳五月吉日建之」の墨書がある。桁行7間、梁間3間半、切妻造、桟瓦葺、木造平屋建、棟を南北に通して建ち、南北両面に銅板葺の下屋庇を付す。間取りは、北側の坪の内に面して長6畳の口ノ間、その南に玄関・中ノ間・上段の10畳座敷が3室続き、東と南に縁が付く。南の縁の西端には別棟の角屋を出し、湯殿と便所を設ける。南端の上段には西面に床の間、床脇を備える。床柱は柱筋から若干奥へ入った位置に磨き丸太を立て、床框もL字型に納める。床の間の床上は薄縁、天井は鏡天井とする。床脇は畳を敷き、上部に違い棚、鴨居の下に天袋を吊る。玄関・中ノ間・上段とも天井は棹縁天井、柱は3室とも柾目の面取角柱を用いる。旧鈴木家住宅は主屋をはじめ各建造物(他に茶室、旦過寮、離れ、井戸屋形および釜屋、米置場、上蔵、新蔵、飾物蔵、米蔵、大蔵、門屋、味噌蔵、大工小屋がある。)は改造が少なく、当初や各時代の外観・構成を良好に残し、近世後期に発展した資本家の居宅の貴重な遺構である。国指定文化財。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻339ページ
→ 紙屋鈴木家