旧本多静雄邸茶室・田舎家

 

(きゅうほんだしずおていちゃしつ・いなかや)

【建築】

平戸橋町(猿投地区)。豊田市民芸の森に所在。豊田市名誉市民である本多静雄は、実業家、古陶磁研究家・収集家としても知られ、民藝の復興にも力を注ぎ、豊田市民芸館の設立にも貢献した。平成5(1993)年には自邸の土地および建物を民藝の普及を目的に、豊田市に寄贈した。旧邸内には、茶室(松近亭)(写真)と 田舎家(青隹居)のほか、旧海老名三平邸などがあり、「民芸の森」として整備され、平成28年に一般公開された。茶室(松近亭)は、昭和23(1948)年に高橋村の渡辺家家老・大沢家の古い煎茶席を買い受け、自邸内に移築して改造を加えたもので、3畳台目と2畳隅炉の二室から成る。建物は、入母屋造、藁葺の主屋の南北両側に桟瓦葺の庇を付し、東側には銅板葺の庇を付す。東に2畳茶室、西に3畳台目茶室を並べて配し、3畳台目の西と北にL字型の廊下を廻らし、廊下の西面北端に板葺(銅板覆)の水屋を張り出す。北面には板葺(銅板覆)の道具庫を付している。2畳と3畳台目の南側に化粧屋根裏の土庇を設け、三和土には躙口と貴人口の前に沓脱石を置き、3番石まで据える。田舎家(青隹居)は、寺谷下の三宅家の旧母屋を昭和29年に移築したもので、建立年代については詳らかではない。間取り、軒の高さ、材から幕末から明治初期頃に建てられたと推察される。建物は桁行13.67m、梁間7.27mの寄棟造、平入、南面西側に角屋を出す。移築前の間取りは、移築時に改造があり、正確な復原を行うことは困難である。本多の自伝の記述と材に残る痕跡から、東側の3間が土間(ニワ)、西側の4間半が板間と座敷と考えられる。土間は東前方をウマヤ、その奥をクドのあるカッテ、これらの西を通りニワとしていたと思われ、居住部分は土間に面した板敷きのオオエ(居間)とオカッテ(食事場)、その奥に前後2室の畳敷きの部屋オデエ(客間)とオヘヤ(寝室)から成る「田の字型四間取り」形式の農家であったと察せられる。屋根は麦藁葺、板間上部の梁組も当初の姿を残していると考えられる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻482ページ

→ 本多静雄