旧松本家長屋門

 

(きゅうまつもとけながやもん)

【建築】

寺部町(高橋地区)。松本家の初代は浅利兵左衛門といい、寛永年間(1624~44)初め頃、寺部領主2代渡辺重綱の時に信州松本より寺部へ赴任し、名字を松本に改めた。渡辺家の家老職・普請奉行を代々務める家柄で、屋敷は寺部陣屋の三の廓の東端に位置している。長屋門の建立年代は解体修理の結果、マヤ(馬屋)より西側の半分は江戸時代末期の造立、東側半分は明治期に増築されたものであることが明らかとなった。長屋門は南面して建ち、規模は桁行12間、梁間2間の大型の長屋門である。屋根は入母屋造、桟瓦葺で、軒は一軒疎垂木とする。南側と東西側の桁行では腕木を延ばして軒桁を受け、軒に小天井を設ける。軒高は約9尺5寸、南面は腰下を簓子下見板張り、上部は漆喰塗りの大壁とする。妻側と北面は内法下を下見板張り、内法上は東西面を漆喰塗り、北面は中塗り仕上げの真壁とする。西端は桁行1間、梁間実長2間の板間、その東に桁行実長2間強の通路部分を設ける。通路の東には桁行実長2間の板間と実長1間半のマヤを配す。通路部分の間を戸口とし、潜戸付の大戸を一枚入れて脇壁へ引き込み、東の一間は壁とする。西端の板間は、北面の東側半間を出入口とし、片引きの板戸を入れ、その奥に間口1間、奥行半間の三和土の踏込みを設ける。踏込みの南は低い板床を張る。通路東側の板間は、北東隅に間口・奥行とも1間の三和土の踏込み、L字型の框を入れ、奥に低い板床を張る。出入口は北面東端に半間の開口を設け、引込み板戸を入れる。南面は半間の窓、引込み板戸を入れ、外に細格子。板間の東は、修理前は座敷に改造されていたが、マヤ(馬屋)であった。北面に出入口を設け、その奥を間口1間半、奥行半間の三和土土間とし、さらにその奥には板床を設け、地中に馬の屎尿を溜める陶器が埋められていた。腰壁は縦板張り、東面に小窓、柱間にマセ棒を嵌め、土間と板床境には馬柵を入れる。マヤの東には桁行2間の土間と8畳の座敷が続き、東端に桁行1間の土間が配される。この3室の屋根下地には野地板、マヤから西側はえつり竹の野地を用い、建立年代が異なる。西側の土間と8畳座敷の北面の一間を開口とし、土間は板戸二本、座敷は腰付障子二本を建て込んでいる。座敷の南面は半間の窓、土間の南面にも窓を設け板戸を入れ、横連子を嵌める。8畳座敷の西面は土壁、東面は2間の引違い板戸4本を入れ、東端の土間より出入りするが、修理に際し、土間の南側半分に管理および見学者用の流し台と便所を新設した。寺部の武家屋敷の遺構として貴重である。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻395ページ

→ 遊佐家長屋門・附土塀