教照寺本堂

 

(きょうしょうじほんどう)

【建築】

吉原町(高岡地区)。本堂は、若林西町圓楽寺の旧本堂で、圓楽寺の寺録によれば、「宝暦七年建立、寛政六年修復、安政六年十一月古堂拂う」とある。移築前の寛政の修復や移築後の幕末の2世巨海による大改造等のため建立当初の形態は明らかではない。本堂は、寄棟造、桟瓦葺、向拝1間(実長2間半)付で東面する。規模は、桁行実長8間、梁間実長8間の真宗本堂の中型本堂の特徴を示す。間取りは、堂前半では、間口7間半、奥行3間を外陣(その内、外陣の外廻り1間幅を凹形に広縁)、その奥1間を矢来内とし、堂外廻りの正側三方に半間強の擬宝珠高欄付の濡縁を付け、正面中央に向拝と木階3級を設ける。堂後半の中央の間口2間半を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間の落間を配し、堂背面の奥行1間強に後堂を設ける。来迎柱と須弥壇を用いる後門形式をとり、柱は来迎柱2本と脇仏壇前4本を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は堂外廻りの柱間、外陣内梁行の柱間、矢来内正面の柱間、矢来内の梁行の柱間(繫虹梁)、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間に渡され、矢来内正面の虹梁上に波彫の丸彫彫刻を載せる。外陣外廻りの柱間には正面に双折桟唐戸と障子、側面に板戸と障子を入れる。内陣および余間正面は柱上に出組斗栱を載せ、内法上に獅子と花と翁の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣に双折巻障子、余間に千本障子を入れる。内陣・余間境は中間に角柱を立て、内法上に漆喰小壁、柱間は旧建具で仕切られていた。天井は広縁を鏡天井、外陣と矢来内と余間を格天井、内陣を折上小組格天井、落間を棹縁天井とする。この堂は、移築後に広縁を堂外に増設したが、その後、堂内に取り込まれている。また、内陣と余間では内陣脇仏壇と余間仏壇が1 間手前の内陣側面の中柱の位置まで移動し、一直線に並ぶ古式の通し仏壇の形式であったと推察できる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻95ページ