行福寺本堂・山門

 

(ぎょうふくじほんどう・さんもん)

【建築】

桝塚東町(上郷地区)。当寺は受法山九品院行福寺と称し、永徳2(1382)年に開山蓮翁実賢により創立されたという。永禄3(1560)年の織田勢の兵火により焼かれ、その後碧海郡国江村に再建されたが、江戸時代中頃の矢作川の氾濫により、宝暦11(1761)年21世俊雅が現地に移転した。現本堂は、明治2(1869)年26世林定賢が伊勢山田河崎町の大泉寺本堂を購入し、明治5~8年に現地に移築した。建立年代は、虹梁の絵様等からみて19世紀前半の建物とみられる。山門は、本格的な鐘楼門で、虹梁の絵様からみて17世紀後半のものである。本堂(写真)は、桁行8間(実長8間半)、梁間5間(実長6間半)、入母屋造、桟瓦葺、妻入り、1間向拝付、南面建ち、縦長の建物である。堂内は、前1間の広縁では畳敷詰めとして棹縁天井張り、次奥3間の外陣では前面柱間に無目敷鴨居を通して柱間を開放し、内法上小壁とし、内部は41畳の広い空間とし、格子天井を張っている。後方中央の間口3間、奥行3間の内陣では、前面柱間3間、側面前1間に框を通して床高を上げ、鴨居、内法長押を通し、前面では内法上に彫刻欄間を入れ、頭貫位置に虹梁を渡し、柱頂に出組斗栱を置き、中備に彫刻を入れている。脇の間の前面も同様とするが、床高を外陣と同高とする。内陣中央後方に4本柱を立て、その内部に阿弥陀如来像を安置し、柱上には頭貫・台輪を通し、出組斗栱を置き、折上格天井を張っている。脇の間の後半では上段框を通して床高を上げており、後方に脇仏壇と位牌壇を設けており、棹縁天井を張っている。なお、内陣正側面、脇の間前面の柱間には中敷居の痕跡があり、当初は凸字型の内陣を造っており、伊勢地方の浄土宗本堂の典型的な形式を採っていたことがわかる。山門は、一間一戸、入母屋造、桟瓦葺、重層門である。市内唯一の重層門であり、中型ながら風格のある本格的な門である。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻42ページ