共有山 

 

(きょうゆうやま)

【民俗】〈社会生活〉

市域山間部を中心に国有林、県有林、市有林のほか、共有林が点在していた。通称奥山といわれた足助地区の十明山のように、旧8か村の入会山だったところもある。ムラの共有山はアザヤマ(字山)、ソウヤマ(惣山)と呼ばれ、登記の仕方には代表・共同・個人名義があった。共有山をムラの家数で分割して経営する方法をワリヤマ(割山)、ワケヤマ(分け山)といった。割山の所有権を各家に帰属させて個人山にする場合と、所有権は元の財産区などに残し、各家には山林の利用権(地上権)だけを認める形態があり、後者は山間部や平野部で広く行われ、何十年後かに割替えを行うことが多かった。稲橋(稲武地区)では割山のときの49戸が「旧戸会」を結成している。組合管理の共有山は設立時のムラの家が会員になり、規約などを整備して管理した。黒田(稲武地区)では段戸山御料林が払い下げられたとき、段戸山に入会権を持つ家々で財産区を作った。広大なムラの共有山を持つ保見(保見地区)では、昭和27(1952)年に在籍の家が財産管理委員会を設立している。ムラの共有山はムラ人に利用する権利があった。御蔵・川面(足助地区)、田津原(旭地区)、簗平(小原地区)では、集落背後のムラの共有山の一部を県の公社造林に管理委託していた。市域平野部では小高い丘をヤマと呼び、ムラの共有山、入会山としてゴ(枯れ松葉)や焚き木、薪などの燃料採取場に利用し、またキノコ山にもなっていた。ムラの組、同族、奉賛会、個人集団などが経営管理する共有山もあった。折平や北曽木(藤岡地区)ではカモン(同族)の共有山があり、下山地区では割山して個人山にしたものをナカマヤマ(仲間山)として共同経営していた。昭和30~40年になると旧豊田市の人口増加に伴い、団地や工場、ゴルフ場などの用地として共有山が売却され、管理組合が解散し、共有山を持たないムラも増えた。〈社会生活〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻495ページ、16巻460ページ