近世城館         

 

(きんせいじょうかん)

【考古】

江戸時代の大名家には、徳川氏にたいする親疎関係等に基づいた家の格式があって、江戸城内における詰所、城郭の有無など、さまざまな場面における処遇の基準が作られていた。「国持大名」「国持並大名」「城持」「城持並」「無城」に分ける区分(『残集柳営秘鑑』)はその一例で、「国持大名」「国持並大名」と「城持」大名は領地に城郭を構え、「城持並」と「無城」大名は、居所として領地に陣屋を構えた。これらの大名家の城郭および陣屋に加え、旗本の陣屋や幕府の代官所までをふくめて、近世城館と総称される。市域には居所として城郭・陣屋を構えた大名家が六家あった。伊保陣屋を構えた丹羽家・本多家、寺社奉行在任時のみ大名格となった足助陣屋の本多家、衣(挙母)陣屋を構えた三宅家・本多家、「城持」大名であり挙母入部後に新たに挙母城(桜城・七州城)を築城した内藤家の六家である。さらに大名ではないが尾張藩の重臣として1万4000石を領し、寺部陣屋を構えた渡辺家がある。また市域に役所を設置した旗本は26家あるが、居所として館(役所兼用)を構えた旗本は交替寄合の松平太郎左衛門家のみに限られる。同家の館跡は現在、松平東照宮の境内地となっている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻120ページ

→ 挙母城(桜城)跡挙母城(七州城)跡松平氏遺跡