近隣組  

 

(きんりんぐみ)

【民俗】〈社会生活〉

ムラの下部組織である組・班などを近隣組という。近世幕藩体制下の「五人組」、明治時代の「伍長組」や「伍組」、昭和初期の戦時体制下の「隣組」などは為政者や行政の必要から作られ、現在でも組や班は、区長からの回覧を回す単位となっている。一方、組や班はオヤク(共同労働)や祭祀組織の単位でもあり、冠婚葬祭や病気見舞いなど日常の生活互助組織としての機能を果たしてきた。とりわけ重要だったのは葬式の際の互助であり、一つまたは複数の組で葬式を手伝い、太田(旭地区)では手伝う隣組をシニ組と称している。その後は念仏供養に集まったりした。市域山間部のムラでは、組と班は同じ扱いで、ともに行政の末端組織に位置付けられていた。ムラの組・班の名称をみると、行政側によって付けられた通し番号を用いているものと、場所や方位名・地名など、ムラの発展に応じて自然発生的に付された名称を用いているものとがあった。猿投(猿投地区)の場合、自然発生的な名称と通し番号の名称の両方があり、地元では使いやすい自然発生的な組名が使用されている。堤(高岡地区)や石野(石野地区)では、地域範囲を基準に新たに設定された行政的な組と、葬式組として機能し、五人組制度を受け継いだと思われる組があった。組・班の代表は組長、伍長、班長と呼ばれ、家の並び順やあらかじめ取り決めた家の順番で務めるところが多かった。中には組やムラ全戸の投票で決められていたところもあった。稲橋(稲武地区)の小井沢組では旧家、資産家、有力者の話し合いで選出されていたが、昭和30年代の頃は推薦になったという。任期は1年が多く、半年というところもあった。組・班の集会は、クミヨリアイ(組寄合)とかゴチョウヨリアイ(伍長寄合)といい、組・班長の家や組所有のお堂などで開催され、組・班長などの交代、組・班行事の調整、各家への伝達、税の徴収、組の会計の報告などが行われた。〈社会生活〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻474ページ、16巻448ページ

→ 五人組