草野半  1851~1921

 

(くさのはん)

【近代】

嘉永4(1851)年7月、挙母藩士の家に生まれ、明治2(1869)年10月家督を継いだ。挙母藩の軍団寮の少助教として軍制改革を担当した。草野は明治中期の挙母地域の行政で大きな役割を果たした。明治32年8月、渡辺良策の後を受けて挙母町長に就任し、同36年に再選された。草野は矢作川の改修、特に鵜の首開鑿に熱心に取り組み、32年頃には矢作川改修同盟会の副会長などを務め、衆議院議員浦野錠平や県会議員大岩勇夫らとともに積極的に活動した。また枝下用水の起業権譲渡をめぐって地域住民の対立が深まった際には、西加茂郡長原田種澄の対応を批判する立場に立ち、尾三自治同盟会にも関係したという。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻284・338ページ