(くだながし)
【近代】
矢作川では近世から材木流通が盛んに行われた。上流の山から切り出された材木・竹材は一本ずつ川流しされたが、これは管流し(川狩り、材木流し)と呼ばれた。中流の西加茂郡平井村古鼠の土場でいったん陸揚げされ、筏に組んで川を下った。矢作川での管流しは時期の制限がなく、夏秋の増水時には堤防や橋梁を破壊させることもあり、愛知県会でも管流しの時期に関する議論がなされた。幕末期に矢作川の材木・竹材の業者の間では、洪水による材木の流失が起きた時、その持ち主をめぐる紛争が起きていた。そのため文久元(1861)年、矢作川筋の材木業者は白栄社を組織し、材木に目印を付けることや河川の改修、輸送に関する権利などについて協議するようになった。白栄社は東加茂郡内の業者による上組、西加茂郡内の業者による下組に分かれ、両組の境界は平戸橋に設定された。矢作川の管流しは長野・愛知両県知事の許可が必要であった。西加茂郡高橋村大字平井の材木業者、今井善六の関係資料には両県知事宛の許可願が多く残されている。明治41(1908)年10月の愛知県知事の許可書によれば、洪水時の木材流出の防止、管流しの期間設定、材木数と管流し労働者の住所姓名の警察署への届出、河川工作物への損害への補償といった内容が盛り込まれていた。この時期には長野県から高橋村大字平井までの管流しに対して、筏乗業者や川舟業者からその停止を求める運動が起きていた。管流しは大量の材木が川面に散乱するため、両業者には危険をもたらしており、管流しを廻船が遡上する最終地点、藤岡村大字上川口から下流を禁止区域とする請願が愛知県庁に出された。県は明治36年に上郷村大字越戸より下流での管流しを禁止していたが、業者はさらにその上流に禁止区域を設定しようとした。これに対して今井善六は管流しは旧慣として行われてきたこと、上川口に材木置き場を設置することは不適当であること、材木経営を圧迫することなどの理由を挙げ、これに反論した。今井は明治42年管流し禁止区域の変更を県に要望し、高橋村大字平井字百々まで管流しを認めるように歎願した。今井は大正6(1917)年11月、県に対して人造石を使って貯水池を築造し、管流しの材木を蓄積し、船や筏を出入りさせる工事の許可を求めた、この百々貯木場の工事は翌年6月完成した。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻589ページ、12巻107ページ
→ 百々貯木場