(くだりやまエー・ビーいせき)
【考古】
稲武地区夏焼町の名倉川と矢作川とに挟まれた立野三角点のある丘陵中腹に立地する縄文時代・弥生時代の集落遺跡。遺跡所在地点は名倉川に向って流れ入る2 条の谷筋の上端部に当たり、北側の谷筋に子種地点と子種上地点、南側の谷筋に大止場地点が位置している。標高は、子種地点が 711~715m、子種上地点が721~725m、大止場地点が719~724mである。遺跡名としては、子種・子種上地点を下り山B遺跡、大止場地点を下り山A遺跡と称している。昭和49(1974)年に子種地点と大止場地点で石鏃や石錘・打製石斧が採集されたことにより遺跡発見となり、大止場地点では土器棺墓と考えられる弥生時代前期の条痕系深鉢が2 個体採集されている。その後、稲武町教育委員会によって昭和63年に試掘調査、平成3(1991)年に発掘調査が行われたが、この調査時に子種上地点の作業用道路の法面から有舌尖頭器が採集されたことで、同地点の発見となった。子種地点では、縄文時代早期後半の炉穴1基・集石遺構4基・土坑2基のほか、配石遺構の可能性のある礫群、および縄文時代晩期末~弥生時代前期の竪穴建物跡1基が検出されている。出土遺物は縄文時代早期~中期前半の資料を中心に、晩期までの遺物が出土し、土坑の底面付近から中期末のほぼ完形の鍔付短頸壺(市指定文化財)が正位状態で出土している。弥生時代の遺物は前期後半の水神平式、中期初頭の岩滑式と中葉の瓜郷式・貝田町式の甕が出土している。子種上地点の遺構には、集石遺構・土坑、および弥生時代前期樫王式の甕(写真)を用いた土器棺墓がある。集石遺構には被熱の痕跡があり、炭化した堅果類も出土している。草創期の資料は、子種上地点発見のきっかけとなった有舌尖頭器が1点みられるのみである。土器は早期・前期・後期・晩期のものがあるが、量的には早期後半の資料が最も多い。大止場地点では明確な遺構は確認されなかったものの、縄文時代早期・前期・後期・晩期の深鉢片や、弥生時代の甕・壺の小片が出土している。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻68・71・109・114・131・158・161・175・187・218ページ、18巻624ページ