国役普請

 

(くにやくふしん)

【近世】

国役普請は、幕領・私領の入り組んだ地域の重要河川を対象に、幕府主導のもと、同一基準で人足や費用を徴収して行う河川工事である。摂津・河内両国および美濃国では、流域に属する村々に、所領の枠を越えて石高に応じた国役金を課し、それを原資とする国役普請が行われていたが、享保5(1720)年以降は全国へと敷衍され、一時中断(1732~58年)をはさみ、文政7(1822)年の万石以上の出願停止により事実上廃止に至る。矢作川流域では、明和4(1767)年の大水害を受け、同年11月、流域の加茂・碧海・額田・幡豆の4郡191村が領主支配を越えた交渉をまとめ、川浚えと堤修復の国役普請を願い出たのが嚆矢である。その後、明和6年、安永9(1780)年、寛政3(1791)年、文化2(1805)年、文政5年の5回実施されている。なお、国役普請実施にあたっては、地域共同性と領主側の協力が前提となるが、願書の準備から折衝、施工に至る普請全般を担う普請請負人が介在し、重要な役割を果たすようになっていた。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻465ページ

→ 川除普請