組合村

 

(くみあいむら)

【近世】

複数の村が共同の利害や秩序、行政のために連合して作った組織。山地や水の利用などをめぐって組織される入会系統のものもあれば、領主への負担体系から作られるものもある。同一領主内で組織されることが多い一方、非領国地域では領主支配を超えて形成されることもあり、村共同体の枠を超えて地域がまとまっていく軸となることもあった。桑原村(稲武地区)は5つの山入会組合に加入していたが、隣接する村々が里山を組合として利用・管理することは日常生活の上でも極めて重要なことであった。同様に水の利用・管理は地域では重要であり、四郷・越戸・花本・荒井(いずれも猿投地区)の4か村は用水普請を行う組合を構成していた。支配関係を基本とした組合村の例では、中世の足助荘「小原大草」に由来する小原組20か村が幕府勘定方雑用割合の単位となっていた例がある。同組合村では有力百姓杉田氏が居住する松名村が触れ頭となって支配伝達が行われるとともに、幕領村々としての負担の平等性のための組織的運営がなされていた。組合村の役人には各村の庄屋クラスが就任することがほとんどで、適宜会合(寄合)して地域利害のための取り決め(組合村議定)を行った。議定がすべて自律的に行われたわけではなく、幕府が触れ出した倹約を組合村として具体化するためになされることなども多かった。例えば、文久3(1863)年3月に稲橋村など11か村組合が取り決めた議定は、地域での暮らし全般に関わって詳細な倹約推進と地域秩序紊乱防止のため28か条にわたって議されたものであった。ただ、そうした組合村議定も地域の中で進化=深化していくのであり、地域社会の要求を入れて再議定されることがあった。上記11か村組合では2年後に食事制限が改定されたり、歳暮での内容限定などが示されたりして、より具体的な対応がとられるようになっていった。それは地域が自らを律していく過程として理解してよいだろう。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻513ページ