(ぐんせい)
【近代】
明治地方自治制度の一つとして明治23(1890)年5月に公布され、愛知県では翌年4月から施行された。古代の郡の名称は、大区小区制で廃止された後、明治11年7月制定の郡区町村編制法により、府県と町村の間に位置する行政区画として復活した。三河は碧海・幡豆・額田・東加茂・西加茂・北設楽・南設楽・宝飯・渥美・八名の10郡となり、各郡に郡役所が設置された。郡役所には長官としての郡長、郡長を補佐する郡書記が置かれ、郡長は県令(県知事)の下で一郡の事務を総理し、町村を監督した。このときの郡は行政区画にすぎなかったが、明治23年公布の郡制により、議決機関である郡会と郡参事会が設置されて自治の権能を有する自治体となる。郡会議員は町村から選挙で選ばれた議員と大地主が互選した議員で構成された。前者は20人を上限として、町村・組合村ごとに1 人を選出した。名誉職であり、任期は6年で、3年ごとに半数を改選した。大地主とは町村税の賦課をうける所有地の地価総計が1万円以上の地主を指す。大地主の互選による議員の定数は、町村において選挙される議員の3分の1とし、任期は3年であった。大地主の有資格者には地域的な偏りがあり、東加茂郡や北設楽郡では大地主が存在しなかったため議員を選出できなかった。郡会の議決事項には、歳入出予算の制定と決算報告の認定、郡有財産の管理・維持方法の制定などがあった。郡参事会は、郡長および郡会議員互選の3人と知事選任の1人で組織され、郡会委任事項や臨時・緊急事項の議決権のほか、町村事務に関する監督行政権が与えられていた。郡会および郡参事会の議長は郡長が務め、議会招集、議案発議、議決執行停止、原案執行、専決処分など、議会に対して大きな権限があった。また、郡には課税権がなく、郡有財産から生じる収入、雑収入および町村分賦金を財源とし、基本財産を所有しない郡は多くを町村分賦金に依存した。明治32年の郡制の全文改正により郡は法人となった。この改正により大地主議員は廃止され、郡会議員の選挙権は年3円以上、被選挙権は年5円以上の直接国税を納める町村公民と改められた。郡制は、行政組織の合理化を主な理由として、大正期になると廃止が議論されるようになり、大正10(1921)年4月12日に郡制廃止に関する法律が公布され、大正12年4月1日に郡制は廃止となった。郡役所は国の地方官庁として残るが、それも大正15年7月1日に廃止された。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻81・197・498ページ、10巻97ページ、11巻44ページ