(ぐんちゅうぎじょう)
【近世】
組合村議定をなす村々が数か村から10数か村を基本的な規模としている(幕府の「治安・警察」を目途としたいわゆる「改革組合村」が大組合50か村、小組合数か村であることを除く)のに対して、郡単位や郡域を超えた数十か村が集まって議定をなす場合があり、これを郡中議定といい、同一領主支配の場合もあれば、支配領域を超えてつながる場合もある。矢作川西岸の小原郷域の村々は中世からのつながりのもと「小原川通」という地域を構成しており、加茂郡の幕領・挙母藩領など7領の行政単位にわたる65か村が安政4(1857)年に参会して、村々に入り込んで悪ねだりをしてくる座頭や浪人、諸奉加人(神仏への寄付金を募る者)などを排除するための協議を行っている。そして、村々の無駄な負担をなくし、地域の治安と秩序を防衛するために地域としての意思統一(議定)を行ったのである。地域社会は組合、郡中という枠組みをもって共同の利害を取りまとめつつ、地域の秩序を維持しようとした。それは、村役人など地域社会における中間層がリーダーとなって地域の意思を議定という形で示すものであった。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻516ページ