(げいしゃ)
【民俗】〈接客文化〉
かつて、料理屋の宴席で三味線や踊りを披露し、客をもてなした芸者は、会談や商談を円滑にまとめる存在として欠かせず、昭和40年代の豊田市中心部には100人くらいがいた。豊田香桜連という組織の中に料理屋組合と芸妓組合があり、料理屋組合に入っている店でしか芸者を揚げることはできなかった。置屋は芸者を目指す者を住み込ませ、芸事の修業を支えて一人前にしたところで、喜多町や神明町を中心に33、4軒あり、挙母劇場の近くが置屋街になっていた。一人前となってお座敷に出るようになれば、花代は置屋に支払われて置屋と芸者で分配した。この後も芸者は置屋で起居したが、やがては自前といって独立することもあった。豊田の場合、何人もの芸者を抱えてお座敷に出していた置屋は10軒ほどで、ほとんどは自前となった芸者が置屋の株を買い、自分一人で住む小規模なところだった。なお、足助でも昭和30年代には6軒の置屋があり、30人くらいの芸者がいた。検番は料理屋に芸者を手配したところで、踊り、三味線、長唄、鳴り物(太鼓、鼓)、常磐津、小唄などの芸事の稽古場でもあり、豊田では神明町にあった。新しくお披露目する「新妓さん」は検番の事務員に付き添われて料理屋に挨拶に行った。宴席以外の活躍の場も多く、豊田の芸者は豊田祭りで盆踊りを踊り、挙母祭りの時には山車に乗って三味線を弾くこともあった。喜多町では祭りの後に若い衆が盛大にヤマオロシの慰労会を行い、喜多町の芸者をすべて呼んでいた。足助の芸者は、11月の紅葉の季節には日曜日ごとに香嵐渓の演舞場で踊り、三味線、鳴り物を披露した。昭和50年代に入って街中に飲食店が増えると、料理屋で芸者を揚げての宴会は廃れ、市街地中心部の再開発もあって「喜楽亭」や「魚十」などの料理屋の閉店が相次いだ。芸者の数もだんだん少なくなり、昭和から平成に代わる頃に豊田の芸妓組合は解散し、検番も処分された。〈接客文化〉
『新修豊田市史』関係箇所:17巻98ページ