慶長検地 

 

(けいちょうけんち)

【近世】

慶長9(1604)年に幕府が行った一斉検地を慶長検地といい、干支をとって「辰の御縄」とも呼ばれる。三河国全部を一斉に行った検地はなく、慶長検地では天正18(1590)年の太閤検地、同20年の豊臣秀次検地が行われた村は除外している。検地は一区画(一筆)の田畑の面積をはかり、田畑の等級を決め、名請人を確認していく作業である。それを記載した検地帳は村単位に作成されたため、田畑と屋敷地に限るものの、村の範囲が確定されることとなった。そして村単位に年貢などの賦課が行われ、村が公的に位置付けられたのである。検地帳末尾の合計石高は村高と呼ばれ年貢の基準となった。幕府の大名や旗本への所領宛行はこの村高を用いて行われる。慶長検地によって作成された検地帳は写も含め市域でこれまで26か村確認できた。慶長の検地帳は天正18年の検地帳の様式を踏襲しており、1筆ごとの分米が記載されず、末尾に村高として分米の合計が記載されている。これ以降の個別領主の検地帳にもこの様式が踏襲されており、他地域の検地帳の多くが1筆ごとの分米を記載していることを考えると、三河国の検地帳の特徴といえよう。ただ村としては1筆ごとの分米高があった方が便利であるため、写を作成する場合には行を改めて分米高を記載していることが多い。新たに開発された田畑は新田畑として、本田畑とは別に検地帳が作成される。新田畑を含め、検地帳は村で保存が義務付けられ、幕領では代官が検地帳を検閲し、墨付や汚れがあると村から詫び証文を出すこともあった。個別領主が本田畑の検地を行うこともある。岡崎藩の慶安3(1650)年の検地は領内一斉に行ったものであり、下総国栗原藩も寛永6(1629)年に一斉に行ったようである。このほか刈谷藩・尾張藩・吉田藩や西端役所旗本本多家や酒呑役所旗本鈴木家などの検地が確認できる。こうした個別領主の検地による村高は幕府に報告するものではなく、検地自体18世紀にはほとんど行われなくなる。村高の本田畑分は固定することになり、村によっては天正や慶長に行われた検地の時のままとなる。災害などによって耕作できなくなる田畑もあるが、それは村高の内の荒高として処理される。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻17ページ、7巻120・841ページ、8巻108・793ページ、9巻810ページ

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