今朝平遺跡

 

(けさだいらいせき)

【考古】

足助町に所在する縄文時代後期を中心とした遺跡。遺跡は、足助川と久井戸川が合流する標高133~137mの地点に形成された舌状の河岸段丘上に立地している。昭和53(1978)年5月、八万橋架設中に遺物包含層とみられる黒色土層が発見されたことにより遺跡と確認され、同年11月に足助町教育委員会により愛知県足助保健所建設に伴う試掘調査が行われた。建設予定地が遺跡範囲内に含まれることがわかったため、翌12月から足助町文化財保護審議会による発掘調査が実施され、遺物包含層のほかに環状配石遺構(1号配石)や方形の配石遺構(2号配石)などが検出された。遺跡の形成過程は次のとおりである。まず後期初頭~前葉に単独の土器埋設遺構が構築され、次に周堤礫を伴う竪穴建物が築かれた。これは中央に石囲炉を有するもので、周堤内側の直径約5mの円形部分が竪穴建物の範囲である。石囲炉内から、炉体に使用されたとみられる大型の破片3個体分を含む計6個体分の深鉢が出土している。いずれも後期前葉の縁帯文土器で、堀之内1式~2式に併行するものである。この竪穴建物廃絶後の後期中葉の八王子式期以降に周堤は再び配石遺構として利用された。周堤礫から配石が連続するようにして東西に向かって延びていることから、配石行為は周堤礫付近を中心にして行われたとみられる。その過程で配石墓が築かれて、この地点は祭祀行為や埋葬を行う空間として利用されるようになり、多量の土器・石器や独特の形状を呈した土偶などが廃棄されたと考えられる。土器は、地元の東海地域のみならず、東日本や西日本の各地から運ばれてきたようで、広く他地域との交流が行われていたことを示している。配石の周囲からは注口土器や土偶・動物形土製品、石棒・石刀・玉類などの祭祀関連遺物が多数出土している。土偶は、関東地域の山形土偶の影響を受けているとされ、顔の表現を忌避するなどの独特の特徴を持っているため、今朝平タイプ土偶として知られている。また、他地域からもたらされた大型の黒曜石塊の出土も注目される。弥生時代の遺構は、前期の条痕文系の壺や深鉢を用いた土器棺墓が2基検出されている。また弥生時代後期の土器や古墳時代の須恵器も出土している。本遺跡は、縄文時代後期中頃の配石遺構などが良好に遺存していることが判明したことから、調査後に遺構は埋め戻され、昭和55年に県史跡に指定された。また出土品43点は昭和56年に町指定有形文化財(考古資料、現在は市指定文化財)となった。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻83・112・115・120・126・133・188ページ、18巻409ページ、19巻356ページ