元弘の乱

 

(げんこうのらん)

【古代・中世】

鎌倉時代末期の内乱。当時の年号からこのように呼ばれる。元弘元(1331)年8月、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵する。足助重範などが付き従い、幕府軍と戦った。幕府は三河守護の足利高氏(尊氏)や重原荘地頭でもある大仏貞直を含む軍勢を送り、後醍醐を捕らえて隠岐に流した。そして持明院統の光厳天皇を擁立し、年号を正慶と改めたが、後醍醐を支持する勢力は各地で蠢動し、年号も元弘を使用した。正慶2(元弘3・1333)年になると後醍醐も隠岐を脱出するなど、反幕府の動きが拡大し、幕府は再び足利氏の軍勢を鎌倉から西上させた。しかし、三河を押さえている足利氏はこの地で後醍醐側に味方する流れを作り、京都に進出したあと反幕府の姿勢を明らかにして六波羅探題を攻め滅ぼした。関東では、高氏の嫡男の千寿王(のちの足利義詮)を戴く武士たちが結集して5月に鎌倉を攻め落とし、幕府は滅亡した。こうした足利氏の二正面作成の成功を支えた要因の一つは、東西の中間基地である三河の地の利を得ていたことであった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻275ページ