小出家

 

(こいでけ)

【近世】

足助岩崎の豪農。小出家は、代々権三郎を名乗り、近世中期以降に足助を代表する商人に成長した家である。当初同家は、質などによる金融業をはじめ、紙や衣類、縄、茶、煙草、綿・木綿、〆粕、白木・材木、柿、塩、炭、脇差・鎌・鍬・鉈などの鍛冶製品、米・大豆・小豆・麦などの穀類、薬の中保丸・全保丸など手広く扱っていた。近世中期以降に同家は、味噌の醸造や酒造業などの醸造業も行っていたが、天明5(1785)年以降自家での酒造は行わなくなり、金融業や地主経営に経営の主軸を移していった。また、同家は、天明6年に市川新田を入手して以降矢作川河口部における新田を入手し新田経営も行っている。同家は、足助役所本多家の御用達も務め、権三郎幸田は、文化3(1806)年正月に紙屋鈴木家とともに家中並の格式を与えられる(写真)とともに、同年2月には足助役所の「仕送り人」に任命されている。本多家当主は観音堂を参詣するついでに権三郎家に立ち寄るなどしており、経済的つながりを背景として同家は領主と非常に近しい関係にあったことがうかがわれる。その一方でこの頃同家の経営は悪化していき、文政6(1823)年から同7年にかけて月並金の負担割合の引き下げや、家業の休業と逼塞を願い出た。幸田の後文政10年前後に同家を相続した光廣は、天保3(1832)年6月に隠居し閏(潤)山と名乗り、嘉永3(1850)年に死去した。光廣の跡を相続した長好は、号弓月を名乗る文化人としての側面もあったが、彼の時代には経営も悪化していたようで、天保4年9月には別段用達金の上納免除を足助役所に願っている。長好の後安政2(1855)年8月に家督を相続したのは養子惟吉である。彼は板倉塞馬と交流のある俳人で、彼の号畝外は塞馬が名付けた。惟吉の時代も幕末の物価高騰や貨幣不足の影響を受け経営は芳しくなかったようで、安政2年から同4年にかけて合計3700両を御立村・新堀村(岡崎市)・細川村(岡崎市)・名古屋の商人から借用している。明治維新後も、金札(太政官札)を伊那県足助局の商法金から拝借しているほか、市川新田を担保にした借り入れを行うなど、同家は資金繰りに苦しんでいたようである。同家歴代当主は文人としても活躍しており、惟吉は畝外の号で俳諧や狂歌を詠んでいる。また、名古屋の書肆から大量の書物を入手するなど「蔵書の家」として地域社会の文化・教育の上で中核となる活動を行っていた。また、幸田の父幸隆は分家の権右衛門と同様に、弓術大和流の門人であり、かなりの腕前を有していたと思われ、彼は足助八幡宮に金的中の扁額を奉納している。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻374ページ