廣圓寺本堂

 

(こうえんじほんどう)

【建築】

市場町(小原地区)。寺は、永正5(1508)年に足助の香積寺3世笑華の弟子器山周璵に市場城主の鱸藤五郎親信が帰依し、曹洞宗寺院として開かれた。その後、肥後守長重、伊賀守直重、越中守長康の帰依を受け、天文12(1543)年に客殿を建立し、当地の禅窟として隆盛を極めた。元亀2(1571)年3世超雲祖越の代に城主鱸越中守藤五郎長康が本堂を寄進した。その後、寛永17(1640)年に舜良が本堂を建立、宝永5(1708)年8世古倫鉞錐が大殿を建立、さらに安政6(1859)年16世大應義仙が現本堂を再建した。山門は嘉永3(1850)年の勧化簿が残され、庫裏は明治32(1899)年の建立である。本堂は、桁行7間、梁間4間半、入母屋造、鉄板葺、一間向拝付、南面建ち。間取りは、前面に広縁を通し、前後2列、横3室の方丈形式とする。向拝は、几帳面取り角柱を立て、柱上に虹梁を出し、柱頂に連三ツ斗を載せ、内方に手挟を付け、主屋と海老虹梁で繋いでいる。堂正面は、敷居、差鴨居を渡して引き戸を入れ、中央柱間に木階を付けて入口とし、その両脇には現在壁を入れている。堂内は、大間では間口3間半、奥行3間の21畳とし、前面では柱間3間に虹梁を3スパン渡し、柱上に平三斗を載せ、この両脇では敷鴨居、内法長押を各室境と同様に通し、内法上小壁とする。上・下の間では、間口2間半として15畳とし、上奥・下奥の間では10畳とし、いずれも棹縁天井を張り、上奥の間では現在床の間、棚、押し入れ、下奥の間では仏壇を付けている。内陣は、前面に2本の丸柱(露柱)を立て、柱間3間に虹梁を3スパン渡し、柱上に出組斗栱を載せる。内陣中央後方に来迎柱を立て、須弥壇を設け、柱頂に出組斗栱を載せ、小組格天井を支える。内陣後方では来迎柱の背面に角柱を立てて仏龕とし、その両脇に繋虹梁を渡して奥に脇仏壇を造り、その間を後門として後方に開山堂を設けている。この本堂は、斗栱、虹梁等を多用するなど、近世後期の曹洞宗本堂の特徴をよく示している。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻154ページ