(こうおんじ)
【近世】
竹元町(高岡地区)に所在する寺院。源義経の家臣鈴木重康が出家して善阿弥と号し、文治4(1188)年に開基したとする地誌もあるが、詳しい創建の事情は不明である。文明13(1481)年付で本願寺から付与されたとみられる方便方身画像裏銘には光恩寺の名がみえる。光恩寺は近世の三河において真宗大谷派の中核的な寺院であった。文政年間(1818~30)に横須賀村(西尾市)の真宗源徳寺と浄土宗福泉寺・称名院とのあいだで、朝廷から与えられる僧侶の地位をめぐる激しい争論が戦わされるのだが、光恩寺は、屈服させられた源徳寺の浄土宗批判の文書の写しを所持しており、この争論に関心を寄せていたと考えられる。幕末の嘉永・安政年間(1848~60)には、檀家であった西端役所旗本本多家の金策に応じ、約束通りの寄附地や寄附金は与えられなかったのだが、なお寺の権利は失われていないことを粘り強く主張し、年季売りを意味する「元置」など民間社会の慣例をいかそうとしている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻654ページ