郷上遺跡

 

(ごうがみいせき)

【考古】

上郷地区鴛鴨町郷上ほかに所在し、矢作川中流域右岸に広がる沖積低地の標高約20mの自然堤防上に立地する集落遺跡。平成9(1997)・10年に第二東名高速道路建設に伴う県埋蔵文化財センターによる2万7000m2の発掘調査、平成17・20・21年には市教育委員会による諸施設建設に伴う計1098m2の発掘調査が行われ、古墳時代~江戸時代の遺構と遺物が確認された。古墳時代の遺構は5世紀後半~6世紀後半の竪穴建物跡16基と大溝SD201を含む溝10条が検出されている。竪穴建物跡の一部にはカマドがあり、大溝は幅5.6m~12.3m、深さ1.8m~2.0mの大きさで、下層から5世紀後半~6世紀前半、中層から8世紀、上層から9~11世紀の遺物が出土している。また、北端部の調査区から埴輪片が出土し、溝SD210は古墳の周溝である可能性も指摘されている。古代の遺構としては7世紀後半の竪穴建物跡1基、8世紀後半~9世紀の竪穴建物跡24基、掘立柱建物跡15基、溝1条および土坑など、10世紀の竪穴建物跡1基が検出されている。鎌倉時代~江戸時代にかけての中近世の遺構は、内部に掘立柱建物や井戸などが展開する溝で画された32区画が確認され、区画の多くは屋敷地と推定されている。この時期はさらに10期に細分され、時期が特定された掘立柱建物跡は230基、井戸は89基を数え、区画内の遺構の変遷も明らかにされている。まず12世紀には、調査区の中央部と南西部に掘立柱建物が若干みられたが、井戸はまだみられない。12世紀末~13世紀前半になると掘立柱建物と井戸の組み合わせが2区画でみられ、明らかに屋敷地が意識され始めたようである。そして、15世紀末~16世紀中葉には掘立柱建物と井戸の数が最も多くなり、この頃に郷上の集落は最盛期を迎えたとみられる。しかし、18世紀前半に入ると遺構が乏しくなる。このことは、江戸時代の宝暦~明和年間(1751~72)に矢作川の洪水や猿投地区の山津波が頻発したとする記録と整合し、これを機に集落は碧海台地上の現在の鴛鴨集落の位置に移転したとする伝承とも一致する。なお遺跡範囲内には字名「元屋敷」が現在も残る。このように、本遺跡は市域の沖積低地に展開した中世集落の動向を知る上で重要な遺跡として評価されている。

『新修豊田市史』関係箇所:1巻284・298・330・366ページ、2巻440・658・668ページ、19巻282ページ、20巻640ページ