(こうげついんほんどう・さんもん)
【建築】
松平町(松平地区)。本松山高月院寂静寺と号し、浄土宗に属する。徳川氏の祖松平氏の菩提寺で、境内には松平家歴代の墓所がある。寺伝によれば貞治6(1367)年の創建、永和2(1376)年に本堂・山門等の造営を始めたという。現在の本堂は、寛政4(1792)年11代将軍家斉が惣御修覆を行い、御普請役に中嶋直五郎と足立長蔵、御作事方棟梁一人と棟札に記載がある。また、同年の別の棟札には「奉造立 棟梁尾陽英比横松住山本金四郎藤原員之嫡子山本幸吉槌打高須忠夫・森清蔵」とある。古材も混在しているが、現在の本堂の大部分は、この時の普請と推定されている。本堂(写真)は桁行7間(実長9間)、梁間6間(実長7間)、入母屋造、桟瓦葺、南面して建つ。正面に一間向拝と木階4級を付し、背面には奥行1間の下屋庇を増築。堂の正・側面には濡縁を付す。軒は二軒疎垂木とし、妻は漆喰塗り、妻飾りはなく破風の拝みは猪目懸魚・鰭付。間取りは、堂前半の間口3間(実長7間)、奥行2間(実長2間半)を外陣とし、その後方中央に間口1間(実長3間)、奥行2間半(実長3間)の内陣、その両脇の間口1間(実長2間)を脇の間とする。四周に広縁を廻す。柱は来迎柱と内陣廻りの柱を円柱、他は面取角柱とする。向拝の柱は粽付の几帳面取角柱で、礎石・石製礎盤上に立ち、柱間に頭貫虹梁、端に木鼻を出す。柱上には実肘木付の出三斗(端部連三斗)を載せ、中備に蟇股、その両脇には三葉葵紋を配し、斗栱背面には手挟を入れる。主屋の正面は、中央の柱間を実長3間とし、内法を高くして敷居と差鴨居を入れ、両脇の各柱間と側面の前半3間には3本溝の敷居と差鴨居を入れる。正側面とも縁長押・内法 長押を用いず、柱上の斗栱も用いず、直接軒桁を受ける。広縁は板敷き、棹縁天井、外陣は畳を敷詰め、棹縁天井とする。内陣正面は両端に粽付の円柱を立て柱間に無目敷居と内法虹梁、その上に粽・結綿付の円束を2本立て、柱頂および束頂に頭貫を通し、台輪を置いて実肘木付の平三斗を載せる。頭貫端は木鼻を出す。内法上には彫刻欄間、柱・束・虹梁は漆塗りとし、内法上の部材には極彩色を施す。脇の間正面は2本溝の敷居と無目の差鴨居(新材)を入れ、内法上は漆喰小壁を設ける。柱上・束上とも斗栱はない。内陣と脇の間境の柱間は無目の敷居と差鴨居を入れ、柱上に頭貫・台輪、実肘木付の平三斗を載せる。内陣背面中央間柱も粽付の円柱、柱間に頭貫、台輪、来迎柱脇で繰形や絵様彫刻を施し、木鼻状にみせる。来迎柱には拳鼻・実肘木付の出三斗を載せ、中備に蟇股、来迎柱間は板壁、禅宗様須弥壇を置いて本尊を祀る。背面両脇間は、内法上を板小壁とし波の彩画を施す。畳敷き、格天井とする。脇の間背面に仏壇を設け、内法上を板小壁に雲の彩画を施す。畳敷、格天井とする。山門は、四脚門、切妻造、桟瓦葺、二軒半繁垂木、破風の拝みと降りに蕪懸魚、拝みの懸魚に鰭を付す。主柱・控柱は粽が付く円柱、円形石製礎盤に立つ。主柱間は蹴放・内法貫・頭貫とし、内法貫・頭貫の端部は木鼻を出す。内法上に襷掛け欄間を嵌める。建具は柱に方立、蹴放と内法貫に藁座を打ち両開き板戸とする。控柱上には実肘木付の出三斗を置き、中備に蟇股を配す。斗栱上に軒桁、梁行は主柱を貫通する妻虹梁、挿肘木の持送りを入れる。虹梁上の主柱脇には笈形、主柱上に大斗実肘木、中備にも大斗実肘木を載せて化粧棟木を受ける。建立年代は様式的に18世紀前半頃のものと推察される。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻44ページ