皇国地誌 

 

(こうこくちし)

【近代】

明治政府が編さんした未完の官撰地誌。明治5(1872)年9月の太政官布告第288号で編さんが始まる。はじめは府県に委託して村誌・郡誌を編さんさせ、それらを基礎資料として全国的な地誌を作り上げる方法を採り、明治8年6月5日の太政官達第97号により、記載すべき項目を列記した皇国地誌編輯例則を使府県に示した。記載項目は、疆域、幅員、管轄沿革、里程、学校、物産、民業など、村誌は47項目、郡誌は37項目にのぼった。三河地方では明治14年頃から村誌の編さんが着手されたが、全国的な郡村誌編さんの遅延などを理由に明治17年に府県へ郡村誌を委託する方式の「皇国地誌」編さんは打ち切られた。地誌編さんは内務省地理局の直轄事業となり、以後は地理局員が自ら現地に赴いて地誌材料を収集し、一国一巻構成の「大日本国誌」を編さんすることになった。愛知県へは明治20年8月に地理局の河井庫太郎が地誌編輯掛員を率いて訪れ、半年間にわたり地誌材料を収集した。現地で収集した地誌材料に基づき尾張国誌・三河国誌の稿本が作成されたが、刊行には至らず、政府の地誌編さん事業は明治23年に帝国大学へ移管された後、しばらくして停止となった。保管されていた稿本や地誌関係書類の多くは関東大震災により灰燼に帰した。「皇国地誌」および「大日本国誌」編さんのため作成された村誌の草稿や控は、市域では数十冊確認されている。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻354ページ