鉱山

 

(こうざん)

【民俗】〈諸職〉

挙母地区西部では磨き砂や亜炭の鉱山があり、ヤマ(山)と呼ばれ、小学生の社会見学の場所になるほど身近なものであった。採掘にあたる事業者をヤマシ(山師)といい、良質のヤマを追い求めて鉱業権を取得した。磨き砂も亜炭も坑道掘りによる採掘で、その地層に達するまでの立坑(竪坑)を掘ることから始まった。この立坑をチンマルといい、磨き砂や亜炭を運び出すのにも使われた。チンマルは四角形に掘り、その壁面には木の板を貼り、避難用の梯子が取り付けられた。地層に達すると横方向に坑道を掘っていき、坑道には落盤防止のために木枠を組んだ。これをトリイガタ(鳥居形)と呼び、丈夫なクロマツを使った。磨き砂の坑道は、幅1間(約1.8m)、高さは2、3mほどであったが、亜炭の坑道の場合は狭いものもあり、高さが1mぐらいのものもあったという。採掘現場である坑道の先端をキリハ(切羽)といい、坑夫が2人一組で作業した。1人はトウグワ(唐鍬)やツルハシ(鶴嘴)で地層を掘る役であり、サキヤマ(先山)といった。もう1人はアトヤマ(後山)といい、サキヤマが掘り出した磨き砂や亜炭を運び出す役であった。アトヤマを3、4年務めるとサキヤマになった。採掘に使うツルハシはすぐに先が丸くなるため、挙母の鍛冶屋が直していた。坑夫が仕事帰りに鍛冶屋に修理を頼み、翌朝に受け取ることが普通になっていた。坑道では不浄を避け、小便などの用を足すこともなく、休憩時に煙草を吸っても吸殻一つ残すことはなかったという。坑夫は地元もしくは近隣の人が多かったが、昭和30年代頃までは朝鮮の人たちが働く姿も見受けられた。チンマルの坑口にはコヤ(小屋)という覆屋をかけて雨水の侵入を防ぎ、「タヌキ穴」と呼ばれる排水用のトンネルを掘る鉱山もあった。それでも坑道内の出水により、ポンプアップによる排水処理は欠かせず、仕事を中断して行うことも多かった。採掘した磨き砂はパイスケという大きな竹籠に入れ、パイスケ2つをトロッコに載せてチンマルまで運んだ。亜炭はソリ(橇)が付いた木箱に積み、アトヤマが肩にロープをかけて這うようにしてチンマルまで曳いていった。チンマルから地上へはウィンチを使って引き上げ、地上に上がった磨き砂や亜炭はフルイ(篩)にかけて品質ごとに選別した。鉱山の仕事は女性が忌避されることが多いが、地上での磨き砂の選別作業では多くは女性が担っていた。磨き砂や亜炭は昭和40年代頃までは名鉄の貨車で出荷され、駅までの輸送は昭和30年頃までは馬車曳きであった。その後はトラックに変わっていくが、名鉄の貨車がなくなる昭和50年代には磨き砂や亜炭の需要もほとんどなくなっていた。鉱山を廃坑にする際はザンチュウ(残柱)もしくはハシラ(柱)と呼ばれる掘り残し部分も掘った。これをハシラヌキ(柱抜き)といい、地盤は支えがないためにしばらくすると陥没した。〈諸職〉

『新修豊田市史』関係箇所:16巻181・192ページ

→ 亜炭磨き砂