興参協会

 

(こうさんきょうかい)

【近代】

明治22(1889)年8月、三河の沈滞を嘆き、三河の団結と復興の方策を立案することを宣言して結成された。「興参協会設立趣意書」では、皇室の尊栄、キリスト教の排斥、倫理の遵奉、教育の普及、生産の向上によって三河の発展を図ることを主張している。興参協会の発起者は西三河出身者(47人)、東三河出身者(15人)であり、西三河出身者中心の団体であった。また、発起者には旧立憲帝政党系の共同会や『愛知日日新聞』関係者が含まれており、古橋義真も発起者となっている。さらに、帝国議会開会以降、政府よりの「吏党」とされた大成会や国民協会などに属した、衆議院議員の早川龍介や今井磯一郎ら三河分県運動の指導者も発起者であった。それゆえ、三河分県運動に親和的で、非自由党系の団体であったと評価できる。明治23年5月には、興参協会を支持する新聞『みかは』が紙上で興参協会派を第一回衆議院議員選挙の候補者として選挙区ごとに推薦した。そして、1つの選挙区内に興参協会派の候補者が4、5人存在する場合は各自で協議し、同一主義の人物を選出して他党派に漁夫の利を得させないように注意するなど、政治的な活動も行っている。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻87・201ページ