(ごうしゃ)
【近代】
明治政府は王政復古直後、神祇祭祀を国家の基軸に置くと同時に、神仏分離政策を実行し、それまでの仏教僧侶による神社・神官への支配、神仏習合的な信仰を禁止した。そして皇室の祖先神を祀る伊勢神宮を頂点として、全国の神社を歴史や由緒によって官幣社・国幣社・県社・郷社・村社・無格社として序列化し、古代律令制下に置かれた神祇官を一時的に再興して、神社と神官を管轄させ、国家と神社の関係を一新した。県社と村社の間に位置する郷社は、明治4(1871)年7月の郷社定則では、戸籍法で設定された調査区画(戸籍区、一区はおよそ1000戸の規模)ごとに配置されるとされた。市域では六所神社、兵主神社、野見神社、糟目春日神社、足助八幡神社などが郷社の社格を与えられていた。由緒や神社の規模などを理由に挙げて、社格の昇格を願う動きも全国的にみられた。六所神社は明治6年郷社に列格されたが、その後大正10(1921)年に社格を県社に昇格することを出願し、翌年それが許され県社へ列格された。また西加茂郡越戸村の村社灰宝神社は明治14年に郷社への昇格を出願したが、この時には昇格はならなかった。しかし昭和6(1931)年4月、社殿・社務所などの修理を条件に郷社への昇格が許可され、10月昇格の奉告祭を執行した。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻61ページ、10巻642ページ、11巻631ページ、12巻489ページ