(こうじゃくじ)
【近世】
応永34(1427)年の創建とされる曹洞宗寺院。近世の歴代住持のうち、参栄本秀は、写経のたびに植樹し香嵐渓と呼ばれる景観のきっかけをつくったといわれており、風外本高は、池大雅に学んだ絵画の名手であった。香積寺は、尾張藩重臣成瀬家の先祖を供養しているとされる。かつて南北朝期の公卿・歌人として知られる二条良基が足助に到来し、現地女性との間に儲けた子が、成瀬家の初代であり、香積寺にはこの母子の位牌がまつられているというのである。もちろんこうした経緯を即座に歴史的事実と認めるわけにはゆかず、近世の成瀬家も慎重な姿勢を示し、使者の参詣時など「何となく御霊屋の様子拝見」にとどめようとしている。他方で香積寺は、信州方面の山間と三河方面の海との重要な結節点であった足助で商売を営む有力者に支えられており、成瀬家と足助の有力者たちとが人脈を築くうえで、香積寺は貴重な場であった。また、猿投社家の歴史について調べていた学者が、香積寺や関係者に助言を求めたという事例もある。加茂一揆の際には、争いの仲裁にでてきた香積寺の住持、時期からいえば風外が、「坊主に似合わぬふるまいであり、馳走に水を喰らわせる」と川端まで投げころがされたという。人々に尊重されていた人物の代表格ともいうべき香積寺住持に対する粗暴な振る舞いは、事実かどうかはともかく、一揆の非日常的な雰囲気を人々に伝える上で強い印象を与える逸話といえる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻707ページ