公達員制度  

 

(こうたついんせいど)

【現代】

昭和44(1969)年8月より公達員制度が始まった。従来行政から市民への連絡方法は、回覧板や『広報とよた』、パンフレット類を市の各課からばらばらに各行政区の区長へ、そして組長を経て市民へと届く仕組みであった。しかしこのやり方では、①連絡事項のまとまりがない、②回覧板が家ごとに順番に回るため時間的にロスが多い、③区域が不明確、④隣組未加入者へは連絡できない等の問題を抱えていたため、新たに公達員制度を発足させたのである。公達区域は行政区域とは異なった。昭和44年当時の行政区数は158、これに対し公達区域は世帯数300を基準に公達員が1日で配布できるように市内を117に区分けした。公達員は市と業務契約を交わし、市広報課が編集したお知らせを直接各家庭へ配布した。こうして公達員からの配布物と区長からの配布物とが区分けされることになった。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻190ページ