(こうふくじほんどう)
【建築】
畝部西町(上郷地区)。当寺は、三州碧海郡阿弥陀堂村の領主神谷石見守高正の菩提を弔うため、明徳3 (1392) 年にその嗣子高朝により創立されたと伝え、京都知恩院の直寺とされる。現本堂は20世中興進誉により、嘉永元(1848)年に再建されたと伝える。庫裏は、土間部分に梁組を残しており、江戸後期のものとみられる。同じ頃に建立された山門は老朽化して取り壊され、昭和58(1983)年に現山門が再建され、四脚門とされた。本堂は、桁行5間(実長6間)、梁間6間半、寄棟造、桟瓦葺、1間向拝付、南面建ちである。柱は、来迎柱、内陣前面2本を丸柱とする他は面取角柱とする。堂内は、前3間の外陣では36畳の広い空間をつくり、棹縁天井(絵天井付・後補)を張り、両側面では敷鴨居、内法長押を通し、内法上を小壁とする。脇の間は、前面では間口1間に無目敷居、虹梁を渡し、内陣前面の台輪位置に欄間框を通し、この下を開放して上を小壁としている。内部は前より1間奥に上段框を通し、床面を高めて内陣と同高に扱っているが、その1間後方では内陣側面の丸柱から側面の角柱に虹梁を渡しており、当初脇の間の床は現在の上段框より1間後退したこの位置に通された可能性がある。さらに、1間後ろに同じような虹梁が渡され、その奥の位牌壇の前面を飾り、天井には格天井を張っている。内陣は、前面では柱間1間とし、丸柱間に上段框を通して床高を上げ、内法上部に梁間3間の大虹梁を渡し、上部の3分点に束を立て、彫刻欄間3枚を入れ、頭貫・台輪を通し、柱頂と虹梁上の束上に出組斗栱を置いている。両側面でも、内法上部に梁間2間の虹梁を渡し、中央に大瓶束を入れて頭貫・台輪を通し、柱頂と大瓶束上に出組斗栱を置き、上部に格天井を張っている。内陣前面より、三間後方に来迎柱を立て、柱上に頭貫の位置に虹梁(端木鼻)を渡し、柱頂に出組斗栱を載せ、前方に禅宗様須弥壇を設けて、本尊を安置している。来迎柱の後方では両脇に脇仏壇を設け、その奥を通路としている。この建物は、近世浄土宗本堂として幕末期に建てられた建築であり、内陣、脇の間には虹梁が多用され、部屋境の空間の連続性が強まり、斗栱等の渦、若葉などの絵様にも激しい表現が現れ、近世浄土宗本堂の規範を継承しつつ新たな空間の開拓が行われている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻40ページ