(こうふくじほんどう)
【建築】
栃立町(下山地区)。本堂は、寛政11(1799)年に柴田俊賢が総欅造で造営寄進したものである。建物は、桁行実長10間、梁間実長9間、入母屋造、茅葺(鉄板覆)、向拝1間(実長3間)付の大型本堂で東面する。間取りは、前より間口7間、奥行3間半を外陣、その奥の1間を矢来内とし、外陣の正側三方には1間幅の広縁と正面に半間幅の擬宝珠高欄付の落縁を付け、正面中央に向拝と木階3級を設ける。堂後半では中央後方の間口3間、奥行3間半を内陣、両脇の間口2間、奥行2間半を余間とする。余間の外側には間口1間半の飛檐の間を設け、堂背面には奥行1間の後堂を通している。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式をとる。柱は来迎柱と脇仏壇前柱を円柱とするほかは面取角柱とする。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、落縁・広縁境の柱間、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に渡され、外陣内梁行と矢来内正面には蟇股を載せる。外陣外廻りは柱上に出組斗栱を載せ、柱間には正面に双折桟唐戸と障子、側面に蔀戸(中央間は双折浅唐戸)を吊る。内陣および余間正面は柱上に出組を載せ、内法上に龍の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣および余間内部にも出組を配す。天井は広縁を鏡天井、外陣と矢来内を格天井、内陣と余間を折上小組格天井とし、飛檐の間と後堂を棹縁天井とする。この堂は、18世紀末の大型の本堂であり、後門形式を取る点、内陣と余間および外陣外側廻りに出組斗栱を用いる点、内陣と余間の折上小組格天井や外陣と矢来内に格天井が張られる点などの先進性が見られ、仏堂化が一層進んでいるのがわかる。その一方で、外陣側面に蔀戸が用いられるなど古風な点が見られるのも興味深い。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻133ページ