国宝疎開

 

(こくほうそかい)

【近代】

アジア・太平洋戦争の戦況が悪化した昭和18(1943)年12月14日、政府は文化財の空襲被害を最小限度に防ぐため、国宝・重要美術品の防空施設整備要綱を閣議決定した。この決定に基づき、特に貴重な国宝・重要美術品については、建造物は防護設備を、宝物類は分散疎開を講じることになった。愛知県では、県の史蹟名勝保存主事を務めていた小栗鉄次郎が中心となって国宝の疎開先を選定し、西加茂郡猿投村大字越戸(現越戸町松葉)の灰宝神社の宝庫(写真)を借用して愛知県国宝重要美術品収蔵庫とした。このとき田中磐五郎社司および氏子総代の山下茂一郎と近藤正男の3人に管理を委嘱した。疎開は神社宝庫の改修が竣工した昭和19年4月から始まり、熱田神宮の紙本著色法華経涌出品・木造舞楽面・菊蒔絵手筥・兵庫鎖太刀・黒漆平胡籙、東照宮の太刀2口、地蔵院の絹本著色騎馬武者像、笠覆寺の色紙墨書妙法蓮華経、七寺の辛櫃入一切経、総見寺の袈裟襷文銅鐸が収蔵された。同年11月には真福寺宝生院が所蔵する絹本著色涅槃図や古事記などの古典籍、あわせて国宝35点が疎開した。昭和20年5月の空襲による名古屋城天守・御殿の焼失を機に、焼失を免れた本丸御殿障壁画116面も委託収蔵された。灰宝神社宝庫へ疎開した国宝・重要美術品は災禍に遭うことなく、敗戦後の昭和20年12月に元の所有者へ返還された。宝庫も灰宝神社へ返還され、田中ら3人の管理人委嘱も解除された。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻704ページ、11巻718ページ

→ 小栗鉄次郎