後醍醐天皇  1288~1339

 

(ごだいごてんのう)

【古代・中世】

鎌倉時代末期から南北朝時代の天皇。後宇多天皇の二男。文保2(1318)年に鎌倉幕府の圧力をうけた持明院統の花園天皇からの譲位によって、大覚寺統の天皇となる。元亨元(1321)年末に後宇多院が院政を停止し、親政を行う。そのため、大覚寺統の家長として高橋荘の支配権を持ち、のちに娘の宣政門院に伝領した。また、元弘元(1331)年に反鎌倉幕府の兵を挙げると、足助荘が天皇家領荘園であったためか、足助重範が味方に馳せ参じ、京都の笠置山で幕府軍と戦っている。鎌倉幕府を打倒したのち、足利尊氏と対立し、建武3(1336)年に大和の吉野に逃れて南朝の天皇となった。足助氏は吉野に逃れたあとの後醍醐天皇と関係を有した者もおり、皇子の一人で、中部や関東地方で南朝方の軍事担当者として活動した宗良親王に、三河から連絡を取っていたのが足助重春である。また、同一人物と思われる足助重治の一族が、後醍醐天皇から忠節を称えられたことも知られる。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻259・299ページ