(こちょう)
【近代】
明治前期の行政単位である区・町・村の長。明治4(1871)年4月に太政官から出された戸籍法で、区ごとの戸籍事務の担当者として、初めて戸長と副戸長が設置された。翌5年の太政官布告第117号で、近世以来の庄屋・名主・年寄などが廃止され、戸長・副戸長に改称されると、戸長たちは戸籍事務のみならず、地域行政全般を担当した。市域では、愛知県による大区小区制のもと、大区に区長1人、小区に戸長1、2人、町村に副戸長数人などが置かれた。明治9年8月、愛知県が全国に先駆けて大区小区制を廃し、県内を15大区152小区から18区に再編すると、区ごとに区長(副区長)1人、戸長1人、副戸長4人が置かれた。郡区町村編制法が公布されると、愛知県の18区制は廃止され、地方行政区画は県一郡(都市部の場合は区)一町村に整理された。これにより、郡ごとに郡長1人、町村ごとに戸長1人が原則として配置され、県内における戸長の数は急増した。郡区町村編制法下での戸長は、町村住民の公選により町村在籍者から選ばれた。その職務内容は、布告布達類の公示、徴税、戸籍の管理、徴兵の下調べなどの機関委任事務、県令や郡長が命じる事務、協議費で支弁する町村固有の事務であり、戸長は国や県の行政吏、および町村の代表者としての性格を併せ持っていた。全国的な動向と同様に市域でも、戸長にはかつての庄屋(名主)や豪農など、町村に影響をもち、行政能力に長けた人物が選ばれる事例が多かった。明治17年5月、明治政府が戸長の官選化、500戸に一戸長役場を基準とする連合戸長役場制の導入などの地方制度改革を行うと、市域でも戸長の数が削減され、その精選化がはかられた。明治22年に町村制が施行されると戸長は廃止された。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻27・74ページ