古墳

 

(こふん)

【考古】

古墳時代の有力者の墓。これに先立つ弥生時代終末期には、列島各地に大きな墳丘をもつ墓(墳丘墓)が出現している。奈良盆地に3世紀前半に造られた墳長100m前後の前方後円形の墳丘墓を古墳として捉え、この時期を古墳時代早期とする意見もある。新修豊田市史では、古墳の構造や副葬品などに一定の決まりが生まれて定型化した大型前方後円墳、すなわち墳長280mの前方後円墳である奈良県桜井市箸墓古墳が築造された3世紀中葉を古墳時代の始まりとしている。そして、古墳時代を前期(3世紀中葉~4世紀後葉)、中期(4世紀末~5世紀代)、後期(6・7世紀代)の3期に区分する考え方が一般的で、例えば6世紀以降急速に数が増加する古墳は後期古墳と呼ばれる。また、前方後円墳が造られなくなる推古朝以降の飛鳥時代のおよそ7世紀~8世紀初頭の古墳は、終末期古墳とも呼ばれる。古墳の形には前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などがあり、古墳時代を通じてみると、円墳が圧倒的に多い。規模も大阪府堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)のように、墳長が525mにも及ぶとされる巨大な前方後円墳から、10mにも満たない小さな円墳や方墳までさまざまである。さらに、古墳時代の墓には墳丘をもたない箱式石棺墓や土坑墓などもあり、大多数の一般民衆は墓を造ることすらできなかったと考えられている。古墳時代に列島各地で築造された古墳は16万基以上といわれており、三河では約2400基が確認されている。行政区ごとに比較すると、豊橋市748基、豊川市434基の順に多く、豊田市ではそれに次ぐ第3位の276基が確認されている。東海地方において古墳の築造が活発化したのは、西暦300年前後からであり、豊田市最古の古墳とみられる百々古墳は、遅くとも4世紀前半までには築造されたと考えられている。内容がある程度判明している市域の古墳を時期別に整理してみると、前期1%、中期10%、後期89%となり、圧倒的に後期古墳が多い。しかし、これらの古墳は奈良時代の開始を前後する8世紀初頭のうちに急速に造られなくなってしまう。また地区別に古墳の数をみると、旧市域の豊田地区が圧倒的に多く、山間部が多い旧町村地区では今のところ16基にとどまっているにすぎない(表)。豊田地区において、現在の中心市街地が広がる挙母地区よりも、猿投・高橋地区の順に多い点は、集落遺跡の多寡とも相関している。本市では高度経済成長期に土地開発が急速に進行したため、すでに6割近い古墳が消滅してしまった。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻255ページ