ごみ問題

 

(ごみもんだい)

【現代】

昭和40年代後半、ごみ問題が大きくクローズアップされ始める。当時豊田市で排出されるごみは1日約110t。しかし志賀町の市営ごみ焼却場の焼却能力は1日30t(施設老朽化のため実質25t)しかなく、多くは隣接した山林に埋め立てている状況だった。そこで昭和47(1972)年5月には24時間稼働、1日300tの焼却処理能力をもつ渡刈清掃工場(現渡刈クリーンセンター)が操業を始めた。昭和50年代に入り、ごみ排出とのたたかいは減量と再利用、市民意識の啓発を目指してやがて分別収集へと推移していく。毎年2t車2000台分のごみが増加していた豊田市では、昭和51年4月から粗大ごみの収集を始め、昭和53年6月には市内6か所(美和住宅、貝津町、双美ケ丘団地、手呂団地、畝部住宅、県営外根住宅)にモデル地区を設定し分別収集の実験を開始した。ビン・カン分別意識の向上や再利用可能資源への注目、住民相互の協力の必要性などが報告され、この社会実験を経て昭和55年8月より全市的に分別収集を開始した。当時は3分別(①可燃ごみ週2回、②不燃ごみ(危険物)月1回、③粗大ごみ年2回)で、事業ごみ・引越等に伴う大量ごみ、土木建築廃材、古タイヤ、廃油等は、渡刈清掃工場か手呂不燃物埋立処分場へ直接持ち込むことになった。その後ガラス・ビン(資源ごみ)を分けて4分別へ、さらに昭和60年4月からは6分別(①燃やせるごみ、②燃やせないごみ、③ガラス・ビン類、④廃乾電池・体温計、⑤廃蛍光管、⑥粗大ごみ)を始めるに至った。こうした取り組み過程の中で市民の省資源意識も高まっていく。昭和55年7月に消費者・業界(商店主)・行政が一体となって豊田市省資源対策連絡協議会が設立され、68種類のビンにラベルを貼り空ビンの返却を促した。だが空ビン回収市民運動は市民の意識向上が求められただけに、なかなか浸透しなかった。その後もごみ排出量は増え続け、昭和62年度では総ごみ量は8万9238t、1人1日当たりごみ排出量は772gにまで上昇していた。ごみの分別収集の徹底とごみ排出量が増大するにつれ、ごみステーションへのごみ出しマナーの無視など別の問題も発生した。ごみ問題への対応は平成に入るとエコライフとして展開されていった。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻396ページ