御料繭

 

(ごりょうまゆ)

【近代】

天皇が即位後初めて行う新嘗祭を大嘗祭と呼び、皇室にとっては一代一度の大祭である。祭場である大嘗宮には東に悠紀殿、西に主基殿が建造され、大麻布の麁服と絹布の繪服が祀られて儀式が執り行われる。近代日本において天皇制に関する儀式は国家にとっても最重要行事であり、地域の人々や資源を動員して実施されることを通じて国民が統合されていく機会ともなった。北設楽郡稲橋村では明治期に養蚕業が奨励されて伊勢神宮神衣祭への献糸が行われ、村の指導者であった古橋源六郎暉皃・義真父子を中心に、献糸の由緒を明らかにしつつ、その産業を発展させる施策が実施されていた。大正天皇の大嘗祭では、繪服の調進は「古式に基き」三河国へ命じられた。そのため愛知県は、額田郡岡崎町の三龍社に調進を、そしてその材料である糸の繭は稲橋村武節村組合献糸会が調製することを決定する。稲橋村武節村組合献糸会は繭の献納について、大正4(1915)年7月に通達でその命令を愛知県知事より受け取り準備を始めた。献糸会では「大嘗祭繪服御料繭調進規定」を作成し、この事業における事務所(写真:静岡県立中央図書館蔵)を稲橋村武節村組合役場に設置して事務を管轄した。また、御料繭を置く奉置所や撰繭所などは稲橋尋常高等小学校に置かれ、その管理方法なども厳重に決められ徹底された。8月15日、仮奉置所より御料繭10石が搬入され、清祓式が執行された。24日には撰繭式が、そして9月4日には発送式が行われた。こうした一連の儀式では、多くの人々が参列している。御料繭はその後、厳重に警備されながら岡崎の三龍社まで運搬され、繰糸機織りされた。完成した繪服は10月12日に京都御所に搬入されたため、その無事を祝うために19日には稲橋村で郷社奉告祭・創設者及功労者奉告祭が行われた。以上のように、御料繭をめぐる一連の行事が地域にとって、大きなイベントであったことがわかる。昭和は三龍社が単独で繪服調進、平成は稲武町役場を中心に稲武が単独で繪服調進した。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻488ページ、11巻657・807ページ

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