(ごりょうりん)
【近代】
皇室財産のうちの不動産を総称して「御料地」といい、そのうち山林形態をとるものは特に「御料林」と呼ばれた。明治維新後の皇室経費はすべて国庫から支給されていたが、皇室の活動が増加するにつれ連年不足がちになっていった。このような状況の中、国庫から独立した皇室の自律的財源を設置するよう求める動きが生じた。明治10(1877)年前後からこうした訴えを記した意見書(「皇室財産設定論」)がさまざまな論者により提出されていたが、いずれも官有地とは区別した独自の地種区分を設けるというもので、宮中を中心とした王土王民論の観点からの反対意見も根強かった。伊藤博文は明治18年内閣制度の創設と同時に宮内省を内閣の構成員から外し、宮内省内に御料局を設けることで、地種区分を変えずに御料地を創設する道を開いた。御料地には、その用途から「第一類御料地」と「第二類御料地」の区別があった。第一類御料地は皇居・離宮・御用邸等、天皇家や皇族の日常・執務の用に供する土地であり、第二類御料地は山林・原野・鉱山等、収益を得ることを目的とした事業用の土地である。御料局設置後に編入が進んだのは第二類御料地である。これとは別に、御料地には代々天皇家に伝えられ、売買・譲渡等が極めて困難な「世伝御料」と、売買・譲渡が容易な「普通御料」の区別もあった。御料局設置後、それまで政府が管理していた官林・官有山林原野・官有鉱山のうち特に優良なものを編入し、第二類御料地とした。官林・官有山林原野は明治22年から翌23年にかけて集中的に編入された。明治22年に編入されたのは、神奈川・静岡・山梨・長野・愛知・岐阜の諸県下、次いで東北・関東所在の官林・官有山林原野で、翌23年には北海道の約200万町歩にも及ぶ広大な面積の官林のほか、宮崎県東西諸県郡、三重県伊勢・志摩両国所在の官林・官有山林原野が編入された。市域では、東西加茂・碧海・額田・北設楽五郡の官林・官有山林原野が御料林となり、東西加茂・碧海・額田四郡の御料林は岡崎出張所に(後、豊橋出張所)、北設楽郡の御料林は新城出張所においてそれぞれ管理された。皇室財産は、御料林も含めた御料地のほか、国庫から支給される「皇室費」(通常会計)、金銀や有価証券などの動産(「御資」)から構成されていたが、御料地収入は明治20年代の間は独立採算をとっており、剰余は翌年の御料地事業に繰り入れられていた。一方、御料地事業のために御資から繰り入れを仰ぐこともあったため、皇室の自律的財源という御料地創設に求められた本来の目的を逸脱することが懸念されていた。大正3(1914)年施行の皇室会計令はこのような問題を解消し、御料地経営の純益を通常会計に繰り入れることが定められた。これによって名実ともに御料地は、皇室の自律的財源となった。以後御料林から上がる収益は年々増加し、皇室の経済的基盤強化において重要な役割を担った。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻303・467・599ページ